村上は観測隊員に選ばれるために、教授のつてをたどって観測隊のOBに話を聞きに行ったり、極地研が開催するシンポジウムで自ら発表するなど積極的にアピールを始めたが、致命的なことがひとつあった。
「観測隊なのでオーロラや氷など自然科学がテーマで、残念ながら建築の研究リサーチの枠はないんです。だから、OBの方々には『なかなか難しいかもしれない』と言われていました」
募集項目に当てはまらない大学院生が選抜される可能性は極めて低かったが、そこで諦める性格ではなかった。南極では建築機器や実験の器具などが壊れた時、買い足すことができないのでその場で修理するしかない。
そこで村上は、工事現場で使用する重機をリースする会社でアルバイトを開始。3年で、たいていの重機を使いこなし、壊れたら分解して修理できるまでになった。その3年間、極地研とのコンタクトを欠かさず、常に南極に行きたいと伝え続けていると、予想外の方向から追い風が吹いた。
たまたま50次隊に入れた!
「50次隊は、古い「しらせ」(南極観測船)と新しい「しらせ」が入れ替わる時でした。最終的にはオーストラリアの船を借りて南極に行くのですが、当初は観測が実現するのかどうかもわからない状態でした。その影響で、地学、地球物理の分野の観測員が確定していなかったんです。しかもたまたま観測隊が新しいことをやり始める時期で、それまで内部推薦だった観測員の人選を、51次隊からは公募にしようとしていました。それで人が決まっていないなら公募を1年前倒しにしてみようと考えてくれて、僕に声がかかったんです」
地理は村上にとって専門外だったが、日本にいる研究者と密に連絡を取り合い、研究者の手足となって観測を行うサポート的な役割だったので、過去3年間、南極に行きたいと訴え続けた村上に対して極地研が「手を差し伸べてくれた」(村上)形で、村上は南極行きのチケットを手に入れた。大学院の書棚で偶然年報を手にしてから4年が経っていた。
村上は50次隊の一員として、2008年12月から2010年3月までの15カ月間、南極に滞在した。
南極とひと言でいっても、どんな場所なのかイメージがわく人は少ないだろう。雪と氷の世界だから寒いんだろうな、という印象はあるが、実際、どれぐらいの寒さなのだろうか。
「マイナス20度ぐらいの日はざらにあって、マイナス45度、50度になる日もあります。マイナス20度も45度も外に出た時の一瞬の感じはたいして変わらないんですが、外に20秒もいると、体が、やばいぞ、ここにもうちょっと長くいるととんでもないことになるぞと言ってくる。身体がアラートを発する感じですね」
ひと昔前、「マイナス40度の世界では、バナナで釘が打てます」というテレビCMがあったが、南極観測隊はまさに「バナナで釘」が日常の世界で15カ月を過ごすのだ。
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