実のところ、薩摩藩内において「幕府を打ち倒すべきだ」とした大久保や西郷らは、むしろ少数派だった。藩の実権を握る国父、島津久光の後ろ盾を得ながら、門閥層や上級藩士たちは出兵に反対。多くの薩摩藩士は「幕府と戦っても勝ち目はない」と倒幕には否定的だった。そのため、倒幕派の西郷は藩内で命を狙われてさえいたのである。
だからこそ、こうして倒幕が果たされた今、戊辰戦争で戦功をあげた薩摩藩兵は、得意満面である。藩庁の指示に従わないばかりか、無銭飲食を働く無法者までいたという。
著しく風紀が乱れるなかで、藩主の島津忠義は困りはてた。そこで頼りにされたのが、やはり西郷である。西郷ならば、倒幕派の薩摩藩兵も従うに違いない。請われて西郷は藩政に復帰。下級藩士を束ねながら、藩政と島津の家政を分離したうえで、上級武士中心の知行割を平等にするなど、藩政改革に着手している。
くだらない政治はまっぴらごめんと、ドロップアウトしたくても、西郷はいつも気づけば中央に座らされている。久光からすれば、まるで戊辰戦争の凱旋兵をバックに、西郷が藩政を牛耳っているように見えたことだろう。
そして、大久保からしても、強大な薩摩藩をコントロールするには、西郷を味方につけざるをえない。西郷は望むと望まざるにかかわらず、つねにキーパーソンとされる運命にあった。
大久保に向けられた久光の怒り
もっとも、荒れていたのは薩摩藩だけではない。明治3(1870)年1月26日には、長州藩で暴動が起きている。倒幕に貢献した奇兵隊が解散を命じられたことをきっかけに、職を失った不満分子が立ち上がり「脱隊騒動」が巻き起こった。
中心となったのは私塾敬神堂の大楽源太郎である。かつては門下生が大村益次郎暗殺計画の嫌疑をかけられたこともある。今回の暴動も、大楽の門下生たちによるものだった。
木戸がいち早く鎮圧に動くも、もし薩摩藩が呼応したならば「第二の維新」が起きてもおかしくはない。事の深刻さから、薩摩藩を掌握するべく、大久保が立ち上がらざるをえなかった。
明治3年2月、鹿児島入りした大久保は久光や西郷と会談。なぜ版籍奉還のような改革を行う必要があるのか。久光に粘り強く説明したが、どうしても理解してもらえない。それどころか、藩を解体しようとする大久保ら新政府の試みに、久光は怒り心頭。新政府のやり方を猛烈に批判している。
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