晩年の瀬戸内寂聴さんが「出家」に感謝した瞬間 出家13年後、姉にかけられた言葉で生まれた決断

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瀬戸内寂聴さんが遺した言葉をお届けします(写真は2014年2月、撮影:尾形文繁)
昨年11月に逝去された作家の瀬戸内寂聴さん。寂聴さんが編集長を務めた『寂庵だより』から、2008年から2017年までの晩年の随想、10年分を収録した随想集が発売されました。
寂聴さんの飾らない素顔が詰まった『遺す言葉 「寂庵だより」2017-2008年より』から、一部抜粋してお届けします(漢数字などは原文の通りにしています)。
前回:瀬戸内寂聴さんが晩年感じた「生きすぎたケジメ」(3月31日配信)

つづけられた力

寂庵で毎月発行している『寂庵だより』と名づけられた新聞が今年四月初めに三百号を発行することになった。

始めたのは昭和六十二年(一九八七年)二月からだった。私の六十四歳の時であった。五十一歳の十一月、奥州平泉中尊寺で出家してから十三年経っていた。

得度十年の記念日に徳島から祝いに来てくれた姉は体調を崩していた。腸にガンが出来ていることに気づいていなかったのだ。

疲れたといって横になった姉がその姿勢のままで、

「十年よくもったね。お礼をしなければ」

とひとりごとのようにつぶやいた。姉の言葉の意味を考えている私の耳に、姉の声がまた聞こえた。

「門を開けて、仏さまをお詣りに来てくれる方々をお迎えする道場を建てたら……」

私はそれまで、出家は自分の人間を鍛え直し、自分の文学の背骨を強固にするために選んだ、つまり自分自身のためにしたと思っていたので、姉の言葉にショックを受けた。

出家した時、すべての物を捨て、寂庵を建てた借金が、ようやくきれいになくなったところだった。また裸になればいいんだと何かが私の背を突いた。

再び銀行で借金をして道場を建てた。その棟上げの時、病体を押して来てくれた姉は、道場が完成する前、直腸ガンで死亡していた。

私は道場の天井におさめた棟木に、この道場は姉瀬戸内艶の発願に依ると書きつけた。

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