晩年の瀬戸内寂聴さんが「出家」に感謝した瞬間 出家13年後、姉にかけられた言葉で生まれた決断

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クモ膜下の時は、二月の寒い朝、持 仏堂(じぶつどう)でお経をあげている最中(さなか)、後頭部をバットでなぐられたように思い、痛くてたまらず発病を知らされたのであった。出家して、行を終え、持仏堂を建て、お経の最中に頭をなぐるとは、仏さまもひどいものだと思ったが、このまま死ねば、戒名もついているし、お寺も延暦寺から坊さまが来てくれるだろう。すべて葬式の支度まで出来ているではないかと思いつくと、でんと肚(はら)が据わってきた。この病で死ぬため、私は出家したのだなと心が定まった。すると、病気も死も怖くなくなり、私の体調はぐんぐんよくなって医者を愕かせた。

ふたたび健康体にもどった時、私はあのまま死んでも後悔はなかったと、晴れ晴れしていた。

また、出家後、私はたったひとりの姉に死なれ、かつて愛しあった男たちにも次々、死なれてしまった。見舞いにも葬式にも出られない立場だったが、私は自分の持仏堂で、まだ下手ながら、お経をひとりであげ、心ゆくばかり、彼等の死を見送った。その度、私は出家していてよかった。この日のために私は出家したのではなかったかと思った。

かえりみれば、四十年の歳月には実に様々な出逢いや別れが打ち重っている。

そして私はまだ死なないでいる。

しかし、もう今夜死んでも不思議ではない年齢だ。

今となっては、何も思い残すことはない。

書き足りない想いもない。

出家したおかげで、あの世を私は信じている。

あの世で、先に逝ったすべての人に再会できると信じている。

いつでも、定命よ、尽きてほしいと落ちついている。

これが得度四十年、法臘四十歳の寂聴の只今の感懐である。
(二〇一三年十一月 第三百二十号)

戦前に戻るな

国民の知る権利と自由を奪う不気味な「特定秘密保護法案」が、反対を絶叫する多くの国民の声をふみにじって、衆院も参院も強行可決してしまった。

戦争の中で育ち、青春を送り、敗戦後を生きのび九十一歳を迎えている私には、こんな怪しい法案を成立させようとする政府は、憲法にそむいて日本を「戦争する国」に仕立てようとしているとしか思えない。

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