晩年の瀬戸内寂聴さんが「出家」に感謝した瞬間 出家13年後、姉にかけられた言葉で生まれた決断
文筆家、宗教家、女性という自分の三つの立場のどれからも、最期まで、この法案の廃絶に向けて闘わねばならないと思っている。
市民のデモを「テロ」まがいに批判した石破幹事長の本音の声は、口や文字でわびてすまされるものではないだろう。
私には、戦後の歳月を生き残っている自分を、戦いで死んでいった人々の霊に申しわけない、相すまないという恥ずかしさが心の底にずっとこびりついている。
あの頃の日本人はすべて本音は口に出来なかった
昭和十八年(一九四三年)の繰上げ卒業で半年早く九月に女子大を卒業し、すぐ婚約者と結婚して十月には北京へ行き、終戦の翌年夏まで北京にいた。夫が中国が好きで日本に帰らず中国で死にたいと言いだしたので、私は一も二もなく夫に従い、赤ん坊と共に非合法に北京の胡同(フートン)にかくれて暮していた。集結所に集められた日本人がすべて引揚げた後、敗戦の翌年の六月、かくれ家を見つけられ、朝早く着のみ着のままで、塘沽(タンクー)貨物廠に送られ、そこから引揚げさせられた。その時、はじめて広島の原爆のあとも、故郷の徳島の焼けあとも目にして呆然となった。
母と祖父が防空壕で焼け死んでいたのも、徳島の駅についてはじめて知らされた。
その後、私は家を出て、小説を書くべく一人の生活を送るようになったが、まだ少女小説しか売れない時、ニュース映画館ではじめて、私が北京へ渡った直後、やはり繰上げ卒業させられた男の大学生たちが、学徒動員され、雨の中を馴れない軍服に身をつつみ、行進して戦場に行く映画を見て、涙があふれ、全身が震え、とまらなかった。
このほとんどが殺されたのだと思うと、生きている自分が恥ずかしくて身がよじられた。
あの頃の日本人はすべて本音は口に出来なかった、治安維持法でうっかりものは言えなかった。政府は戦争で負けているのに勝ったとばかり報道し、国民はそれを信じこまされ、その度、旗行列や提灯行列をして、バンザイを叫んでいた。
死ぬと承知して、帰ることのない飛行機に乗って死んでいった特攻隊の若い戦士たち。
何も知らず、空襲のない北京でのんびり暮していた私も、突然、三十すぎた夫を現地召集で出征させられた。それから親子三人引揚げまでの苦労など、内地で空襲に遭った人々の苦労と比べものにもならない。
ああ、何があってもあの暗黒の世界に再び戻ってはならない。戻させてはならない。生き残された命をかけて、この政治の方向に反対しなければならない。
(二〇一三年十二月 第三百二十一号)
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