「突破者」宮崎学が絶対に譲らなかった矜持と生涯 具体的な差別と具体的に戦った作家の「遺言」
1984年に江崎グリコ社長が何者かに誘拐されたことをきっかけに、食品会社を標的とする脅迫事件が相次いだ。いわゆるグリコ・森永事件である。容疑者はその風貌から「キツネ目の男」と呼ばれた。この「キツネ目の男」ではないかと疑われていたのが、宮崎学氏である。
宮崎氏は自らの半生を振り返った『突破者』(南風社、のちに幻冬舎アウトロー文庫、新潮文庫)で作家デビューすると、一躍論壇の寵児となり、次々に作品を世に放ってきた。体調を崩してからも創作意欲は衰えなかったが、残念ながら昨年刊行した『突破者の遺言』(K&Kプレス)が遺作となった。
忘れられない一節
宮崎学氏ほど差別を憎み、差別と戦った人はいない。氏の訃報に接し、その思いを改めて強くしている。
忘れられない一節がある。宮崎氏がデビュー作『突破者』につづった、上田という人物との思い出だ。
上田は宮崎氏の実家・寺村組の行儀見習いの住み込み若衆で、当時はまだ中学生だった。しかし、山口組との抗争で足をドスで刺されながらも必死に組の代紋を守り抜き、古参の組員から期待されるような人物だった。
上田は被差別部落出身で、子どものころは解放運動に加わり、部落解放同盟の少年闘志として名を馳せていたらしい。しかしその後、運動から身を引き、ヤクザの世界に転じた。
そのころ宮崎氏はマルクスにかぶれており、上田のような優秀な人間は運動に挺身すべきだと考えていた。そこで、余計な差し出口だと承知しつつも、解放運動に戻るべきではないかと問いかけた。
上田はしばらくうつむいたあと、こう応じた。
「学さん、わし、ヤクザになって初めて自分が解放されたと思たんですわ。この気持ち、わかってくれます?」
「運動のなかにいるときには差別はない。そやけど、学校や世間に戻ったら、差別されよる。わしがなんぼ鉢巻きして喚いたって、いっこも変わらへん」
「そら、世の中そうは簡単には変わらんぞ」
「いや、学さん、世の中は変わらんかもしらんけど、世間は変わる。わしがヤクザになった途端、だれも差別しよらへん。表だっては、だれもしよらん」
「いくらタテマエを叫んでも、差別なんかなくならへん。とすれば、そのなかでどう生きるか、どう世間と付き合うかしか自分には考えられへん。学さん、わしはもう、自分のやっていることが人のためにもなるという世界で動くのはやめたんですわ。これからは、おのれのためだけに動く。たとえ鬼だ蛇だといわれても、わしはわしの道を極める。それで自分が救われるかどうか、賭けてみますわ」
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