当時、私が在籍していたハーバード・ビジネス・スクールでも、米国の金融危機後の成長のあり方に関する議論が盛んに行われていました。
たとえば、過去のさまざまな米国の経済危機からの再生の軌跡はどうであったか。たとえば米国は1980年代の製造業の危機から、1990年代のITをはじめとするサービス経済主導の成長への転換に成功しています。またドットコムバブル以降、米国における銀行業と証券業の分離を定めたグラス・スティーガル法の一部撤廃(通称グラム・リーチ・ブライリー法と呼ばれています)を端とし、米国の金融産業は著しい発展を遂げました(金融危機というつらい結果には終わりましたが)。
日本が失われた20年と言われている間に、大きく経済構造の転換を遂げていたのです。
では、なぜ米国にそれができて、日本にそれができなかったのか。その答えは米国の政治・政策形成プロセスの中に隠されているのではないか。
そこで当時、私は運よく奨学金を得られたこともあり、同じハーバード大学で公共政策・国際関係などを教えているハーバード・ケネディ・スクールをあらためて受験し、ハーバード・ビジネス・スクールと併行して通いました。そこで、ビジネスと政策の両面から米国という国、特になぜ幾多の危機を乗り越え、この国は経済成長を継続させることができるのか、を把握することに努めました。
そこでわかったのは、米国は経済構造転換の節目節目で、実は企業が積極的にイニシアティブを発揮している、ということでした。
政府に果敢に働きかける、IBMやHP
たとえば今、日本では製造業が苦境にあると言われることが多いですが、1980年代に米国が日本の攻勢を受け、製造業が疲弊していたときに何をしたでしょうか。
米国の有力企業は1986年に競争力評議会(Council on Competitiveness)という団体を作り(今でも存在)、米国の国としての国際競争力向上に力を注ぎました。
また当時から経営学の世界的権威であったマイケル・ポーター教授なども巻き込みながら、レーガン大統領のイニシアティブの下、当時、ヒューレット・パッカードのCEOだったジョン・ヤングの名を冠した「ヤング・レポート」を発表。産業構造転換のビジョン、その実現のための方策を提案したのです。
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