冷水が湯になる高熱?「平清盛」最期が壮絶すぎた 源頼朝の討伐に執念を燃やしながら病に勝てず
後白河法皇の院政復活直後に病
諸国の源氏が挙兵するという激動の治承4(1180)年が終わり、新たな年(治承5年)が始まっても、不穏で不吉な情勢は変わらなかった。1月14日、かねて病気がちであった高倉上皇が崩御したのである。享年21という若さであった。ここに、治承3年のクーデター以来、停止されていた後白河法皇による院政が復活することになる。
さてその直後、平家は度重なる反乱に対処するために、平宗盛(平清盛の三男)を惣官職としている(1月19日)。惣官とは、兵士役の賦課や兵粮米の徴収を強力に推進することができる軍事指揮官であり、宗盛は五畿内(大和、山城、河内、和泉、摂津)と伊賀、伊勢、近江、丹波という広範囲の惣官に朝廷から任命された。
2月に入ると、源行家(源頼朝の叔父)の反乱軍が尾張国まで進出してきたとの報がもたらされ、宗盛も戦闘準備に入っていた。宗盛自らも出陣する予定であったのだが、そこに入ってきたのが、父・平清盛が病との報であった。古典『平家物語』は、清盛の発病を次のように描いている。
『治承5(1181)年2月27日、平宗盛は、源氏追討のために東国へ出陣と噂されていたが、父・清盛が病となったということで中止された。翌28日には清盛が重病となったと聞かれたので、都中や六波羅でも「それ見たことか」と人々はささやきあったという。清盛は発病した日から、水さえものどを通らないありさまであった』(『平家物語』を筆者が現代語訳)。
これにより、出陣は延期される。『玉葉』においては、清盛の病は「頭風を病んだのでは」(2月27日)と記されている(『吾妻鏡』には25日よりの病とする)。閏2月3日には、清盛の病がさらに進行していることが記され、4日には「夜に入って、清盛が死去されたと聞いた」との記載がある。
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