冷水が湯になる高熱?「平清盛」最期が壮絶すぎた 源頼朝の討伐に執念を燃やしながら病に勝てず

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清盛の妻・時子は、夫の死期が迫っていることを感じ、枕元で泣く泣く「この世に思い置かれることがありましたら、少しでも物事のお分かりになる間に仰ってください」と告げる(閏2月2日)。すると、清盛はとても苦しそうに次のように息も絶え絶え言ったという。

「この世の望みは、もう何一つ残っていることはない。ただ、思い残すことは、伊豆国の流人・源頼朝の首を見なかったことである。これが遺恨だ。私が死んだ後は、仏堂や塔を建てて、供養をしてはならん。直ちに討手を差し向けて、頼朝の首をはね、わが墓前に供えるのだ。それが何よりの供養となろうぞ」と。

そして、同月4日、もだえ苦しみ、七転八倒しながら死んでゆくのである。板に水を注ぎ、そこに寝転んで、せめてもの処置としたが、効果はなく、もがいて亡くなっていくのであった。『平家物語』は清盛の死を「日ごろ、作っておかれた罪業ばかりが、獄卒となって迎えに来たことであろうが、まことに哀れなことであった」と評する。

清盛にどこか同情しているかのような書き振りである。『平家物語』は清盛を「悪人」として非難ばかりしているかのようなイメージがあるかもしれないが、そうではないことはここからもうかがえよう。

遺言でもわかる清盛の闘争心

激動の平安時代末期に、日本で初めて武家政権を樹立した男の凄まじく、そして剛毅な死にざまであった。『吾妻鏡』にも清盛の遺言が記されており、それは「3日以後に葬儀をするように。遺骨は播磨国の山田法華寺(山田の地には清盛の別荘が営まれていた)に納めること。7日ごとに形どおりの法事をして、毎日はしないように。京都で法事をしてはいけない。子孫は、東国の平定に専念せよ」というものであった。

『平家物語』に記載された清盛のすさまじい遺言が、中和された感がある。しかし、『玉葉』には、清盛が遺言として「わが子孫、1人生き残ったとしても、骸(死体)を頼朝の前にさらすまで戦え」と言っていたことが宗盛の言葉として載っている。

また、清盛は、後白河法皇に対しても、使者をもって「自分の死後のことは万事、宗盛に任せてあります。何事であっても、これと相談し、取り計らってください」と奏上したという。しかし、法皇からの回答がないので、これを恨みに思った清盛は「異論あるべからず」と強く念を押したと言われる(『玉葉』)。

平家一門を栄華に導き、天下に覇を唱えた英傑も「前世で定められた寿命が忽ち尽き」「身体は一時の煙となって都の空に立ち上り、遺骨はしばらく残りとどまったが、浜辺の砂にいりまじり、ついにむなしい土」になってしまったが、死の間際まで、闘争心は失っていなかった。

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数
X: https://twitter.com/hamadakoichiro
 

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