「ウクライナと露」エネルギーから見る危機の歴史 ロシアと欧州「エネルギー安全保障重視の契機」

✎ 1〜 ✎ 11 ✎ 12 ✎ 13 ✎ 最新
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

しかしこれは、一方的な関係ではなかった。ガスプロムにとって、欧州へのアクセスを確保できることはきわめて重要だった。欧州市場はおもな収益源だったからだ。これはつまり、ロシアがウクライナに依存していることを意味した。

2005年の時点でも、欧州に輸出される天然ガスの80%がウクライナのパイプラインを通っていた。ウクライナとロシアがどちらも同じ国に属し、いわゆる「ブラザーフッド」(兄弟)ガスパイプラインでつながっていたときは、それが問題になることはなかった。しかしソ連が消滅した今となっては、それが大問題だった。ウクライナとロシアはもはや兄弟ではなかった。

ロシアの政権存亡に関わる重大な脅威

1991年のソ連崩壊後すぐに、両国のいさかいが始まった。ロシアのガスの価格と、ウクライナのパイプラインを使う天然ガスに課される関税がもとだ。それでも「2人のヴィクトル」が激戦を演じた2004年のウクライナの大統領選までは、その争いはおおむね抑制されたものだった。不正操作が広く疑われたその選挙では、最初、現職の首相で元ボクサーのヴィクトル・ヤヌコーヴィチが勝利した。

ヤヌコーヴィチはロシア語を母語とし、ロシア政府肝いりの候補だった。対するもう1人の「ヴィクトル」、ヴィクトル・ユシチェンコは元首相、元中央銀行総裁で、ウクライナ語を母語とし、欧州から大きな支持を受けていた。

選挙後、不正に抗議する大規模な集会が首都キエフの独立広場で開かれた。この抗議行動はのちにユシチェンコの選挙運動の色にちなんで「オレンジ革命」と呼ばれることになる。裁判所の命令でやり直された投票では、ユシチェンコが勝った。とうとう西を向いた大統領がウクライナに誕生してしまったということで、ロシア政府は愕然とした。しかもユシチェンコの妻はウクライナ系の米国人であるばかりか、ジョージタウン大学の卒業生で、レーガン政権時代に政府の職員だった経歴も持っていた。

ロシア政府にとって、この結果は「色の革命」が政権の存亡に関わる重大な脅威になりうることを示していた。ウクライナのオレンジ革命の前にも、新独立国ジョージアで「バラ革命」が起こって、反ロシアの改革派が政権に就いたばかりだった。

次ページ「色の革命」の脅威
関連記事
トピックボードAD
政治・経済の人気記事