キエフ大公国は地元のスラブ族と混ざり合ったバイキングの戦士たちによって「ルーシの地」に築かれた国で、キエフ(現在のウクライナの首都)の君主に統治されていた。ウクライナとロシアはこのキエフ大公国につながる系譜を共有する一方で、国のアイデンティティをめぐって激しく対立している。二国は同じアイデンティティを持つというのがロシアの主張、二国は別々のアイデンティティを持つというのがウクライナの主張だ。
モスクワ大公国への「忠誠」
キエフ大公国は1240年、モンゴル帝国のキプチャクハン国によって滅ぼされ、歴史から姿を消した。「ウクライナ」が初めて地図に登場したのは、1640年頃、ポーランド・リトアニア共和国の一部だったときだ。ある地図では「果てしなく広がる何もない平原(一般に「ウクライナ」と呼ばれる)」と記されていた。
それから十数年経った1654年、現在のウクライナの地を治めていたコサックの首領が、当時ロシアの国々を「再統合」していた東スラブのモスクワ大公国のツァーリに忠誠を誓った。歴史家や政治家、ナショナリストのあいだでは現在も、このモスクワ大公国への忠誠が自治権までは手放していない条件付きのものだったのか、それとも完全な服従と併合に同意したものだったのかについて、議論の決着がついていない。
第一次世界大戦前になると、ロシア帝国内のウクライナでナショナリズムが高揚した。この時期は、ちょうどウクライナ南東部のドンバス地方で本格的な産業化が進んでいるときで、帝国のほかの地からロシア語を話す人たちが集まってきていた。1918年、ボルシェヴィキ革命の直後、ウクライナは独立を宣言したが、革命後に始まった内戦の混乱の中で独立の話は消滅した。やがてボルシェヴィキが内戦に勝利すると、ウクライナはソビエト連邦を構成する共和国になった。
1991年末、ソ連の崩壊により、ウクライナは初めて──第一次世界大戦末期の束の間の独立を除けば──単なる理念や、辺境や、帝国の一地方ではなくなった。主権国家になるのは、これが初めてだった。
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