エコに「ケッ」と思っていた私が考えを変えた理由 孤独から脱出し、日常が「意味あること」になる

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でもまあ変わりモンが1人から2人に増えても許されるだろうと、次回から小さなタッパーを持参することにした。今やこのトマト型の可愛らしいタッパーを出すたびに、奥さんから「あら可愛いわねえ」と言っていただけるのが定番の儀式。こうしてわが家のプラごみは1つ減った。やればできるじゃん!

世の中に「カクメイ」の種を蒔く

で、この「カスタマイズ」に味をしめた私は次なる一歩に踏み出した。ターゲットは近所の米屋。いつも2キロ入りの玄米(プラ袋入り)を買うんだが、よく考えてみれば、わが家には農家から米を送ってもらった時に使われていた紙の「米袋」があることに気づく。もしやこれを持参すれば豆腐屋と同様にこの中に米を入れてくれたり……しないかしら?

恐る恐る頼んでみたところアッサリ、あ、いいですよとのお返事。ちなみにこの袋、こうして6年使い続けているが未だ破れる気配なし。毎回米屋さんと「案外丈夫だよねー」と言い合っている。こうしてまたわが家のプラごみは1つ減った。

なるほどプラ社会というシステムを変えることはできずとも、自分なりにできる範囲でそこに風穴を開けることはできるのである。そんなこと1人がやったところで無駄じゃね? といわれるかもしれないが、っていうか当然私もそう考えたことがないわけじゃないが、でもこうして1つひとつ多少の勇気を出して小さな穴を開けていくうちに、案外そんなことでもないんじゃないかという妄想がふつふつと湧いてきたのである。

っていうのはですね、こういう世間の流れとは違う行動を、「もったいないんで」とかの軽い一言でさらりとお願いし続けるうちに、店の人もそんな「もったいない」精神にじわじわ影響されるかもしれないではないか。

店の人だけじゃない。居合わせたお客さんも、私が最初に豆腐屋で目撃した変わったおっちゃんの時と同様、「今時こんなことしてる人がいるのか」と違和感を感じるに違いなく、それがさざ波のようにその人の心に何かを巻き起こすことなどないと誰が断言できるだろう?

つまりはですね、私は地味に日常の買い物をしているだけに見えて、実は人知れず世の中にカクメイの小さな種を蒔いているのである。いつかそれが一斉に芽吹き、何かデカいムーブメントが起きるかもしれない。

そう想像するだけで、日常のどうということもない行為が俄然、相当なレベルの「意味のあること」に思えてくる。そのように考えればやるべきこと、やれることは山のようにあるのだった。

カフェではトレーに乗せられたプラ入りのおしぼりをそっと押し返し、仕事先で出されたペットボトルには手をつけず……ま、自己満足には違いない。でも自己満足でいいのである。だって本当に自分が一番満足しているのだ。

生きていて何がイヤって、「どうせ」という感情を抱くことほど情けないことはない。自分一人が何をどうしようが「どうせ」何も変わらない、自分も世の中もよくなることなど「どうせ」あるわけないと思ってしまうことが、どれほど人生をつまらなくダメにするか!

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