実は口約束?歴史動いた「薩長同盟」の意外な真実 「薩摩と長州が共に戦う」という条項もない

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1.幕府の征長軍が長州に攻め込んだ場合、薩摩藩は藩兵2000人を上京させる。
2.長州藩に勝機があれば、朝廷の汚名がそそがれるように、薩摩藩は朝廷を工作する。
3.長州藩の敗色が濃厚な場合も同様に、薩摩藩は朝廷を工作する。
4.戦争を回避した場合も同様に、薩摩藩は朝廷を工作する。
5.徳川慶喜、京都守護職の松平容保、京都所司代の松平定敬がこれまでの政治姿勢を改めないならば、最終的には慶喜・容保・定敬との決戦を覚悟するしかない。
6.朝敵の汚名が取り除かれたならば、朝廷のもとで諸大名が国政に参画できる政治体制への移行を両藩は目指していく。

5つ目はややわかりづらいかもしれないが、「長州藩を朝敵にすべし」と朝廷に強く主張したのが、(一橋)慶喜と容保(会津藩主で京都守護職)、定敬(桑名藩主で京都所司代)の「一会桑」だった。つまり、「長州藩から朝敵の汚名をそそぐ」という点で、他の条項と同じである。

6カ条を読んでみて、いかがだろうか。「薩摩藩は長州藩とともに戦う」といった条項はどこにも見られないことがわかる。「朝敵にされてしまった長州藩がこれ以上、追い詰められないように、薩摩藩が朝廷に働きかける」といった決意表明にすぎない。

勝海舟が西郷にぶちあげた「諸藩が連合して共和政治を行う」という構想を実現するには、あまりに物足りない内容だ。しかし、西郷や大久保からすれば、これが限界だった。2人にとって大きな壁となる、もう1人の男の存在があったからだ。その人物とは、薩摩藩の国父・島津久光だった。

もともと薩長同盟は口約束だった

大久保利通は島津久光に取り立てられて、出世の階段をかけあがった。久光の政治的影響力が中央で高まるように、大久保が京や江戸で東奔西走してきたことは、すでに本連載で書いてきたとおりである。

久光の野望に立ちはだかったのも、やはり徳川慶喜だった。慶喜によって参与会議は分裂へと追い込まれ、そこから薩摩藩と慶喜の静かなる戦いが、西郷と大久保に引き継がれたといってよい。

だが、久光は当初から倒幕する気などまったくなかった。いや、久光だけではない。薩摩藩内でも「幕府に対して意見は大いに言うべきだが、その命に背いてならない」という見方が根強く、藩をまとめあげる久光としては、そうした意見を無視するわけにはいかなかったのである。

実はこの6カ条すらも当初は口約束で、薩摩藩は書面に残したがらなかった。不審に思った長州藩の桂小五郎が合意事項を書面にまとめて、立会人の龍馬に提出。そこに龍馬が裏書するかたちで、合意内容が明文化されたにすぎない。いかに西郷や大久保が、久光を刺激しないように気を揉んでいたかがわかるだろう。

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