薩摩と長州は「犬猿の仲」として知られている。なにしろ「文久の政変」や「禁門の変」などにおいて、薩摩は幕府側に立って長州と敵対してきた。特に「禁門の変」において長州藩は、久坂玄瑞や来島又兵衛らといった有望な人材を亡くしている。薩摩に対する感情は、一通りではなかっただろう。
薩長同盟が合意に至るまでにも、紆余曲折があった。争点となったのは「長州藩が幕府からの処分を受けるかどうか」である。長州藩としては「すでに第一次長州征討のときに処分を受けている」としたが、薩摩藩は「第二次征討を止められても、幕府から何らかの処分はあるはずで、それは穏便に受け入れてほしい」と、現実的な路線を探ろうとした。
このときの力関係でいえば、薩摩藩のほうが明らかに上だ。
なにしろ、長州藩は「禁門の変」でボロボロになったうえに、諸外国からの砲撃も受けている。そのうえ、幕府は長州征討でとどめを刺そうとしているのだ。「助けてほしい」と頭を下げるべきは長州藩だったが、弱い立場だからこそ、妥協するのは難しい。長州藩内の反対勢力も納得させられないだろう。
そんな長州の置かれた立場を理解した西郷が、最終的には折れることとなった。たとえ長州藩が幕府の処分を受け入れなくても、薩摩藩は静観すると約束。遅れて到着した龍馬の調整もあり、無事に話がまとまっている。
龍馬の仲立ちと西郷の器量によって、幕府が思いもよらなかった薩長同盟が、ひそかに誕生することとなった。
朝廷工作に明け暮れていた大久保
大久保はといえば、薩長同盟の締結にあたって特に大きな関与はしていない。大久保はもっぱら朝廷工作に明け暮れて、なんとか長州征討を思いとどまらせようと奔走していた。つまり、長州との新たな協力関係を結ぶというダイナミックな政治活動は西郷に任せて、自身は幕府に長州を攻撃させないための地道な活動に明け暮れたのである。
西郷と大久保はセットで語られがちだが、2人で一緒になって行動することは意外と少なく、それぞれの役割を果たしながら、同じ方向へとひた走った。そんな大久保と西郷の前に立ちはだかる壁が、徳川慶喜である。何度も煮え湯を飲まされた相手をどう打ち倒すのか。そのためならば、長州と手を組むこともいとわなかった。
その一方で、大久保と西郷には、慶喜以外にももう1人の強敵がいた。一体、誰か。そのヒントは、薩長同盟の中身をみて見れば、かすかに見えてくるだろう。薩長同盟は誰もが耳にしたことがあるに違いないが、具体的な中身はそれほど知られていない。合意したのは、次の6カ条であった。
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