脱サラし月面探査車開発「NASA」の目にとまった訳 きっかけは直接送った探査車の「YouTube」動画

✎ 1〜 ✎ 3 ✎ 4 ✎ 5 ✎ 最新
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

一方、会社はドイツの自動車部品世界最大手・ボッシュの子会社となっていた。40代になって帰国すると、今度は所属する駆動開発部門が豊田工機に買収された。さらに合併があり、ジェイテクトという会社に変わった。

駆動開発一筋の会社員人生なのに、所属する組織は次々に変わっていく。その中で中島さんは管理職の立場になり、組織で新しいものを生み出すために何をどうマネジメントすれば良いのか、考えることも増えていた。

当時、自動車業界は性能面では十分な水準に達していて、低価格や燃費向上といった方面に開発の重点が置かれるようになっていた。「開発の方向性がガラッと変わった。この業界で今後、自分が果たせる役割はあるのだろうか」。自分の力では、どうしようもできないことに悶々と悩んでいる気がした。

東日本大震災の日に退社を決めた

そこで何か答えを見いだそうと、新しい発想やものづくりに関する講演会を聞きに東京へ行った。その日が2011年3月11日、東日本大震災が起きた日。帰路、大きな揺れに見舞われ、埼玉の自宅まで歩く途中、東北の惨状を知りがくぜんとした。

「これほど大変なことが起きているのに、明日また出社して部品の図面を書くなんてできない。もう自動車の開発をやっている場合ではない。会社は辞める」。中島さんは翌日から出社をやめてしまった。もともと今後について悩んでいた矢先、震災を引き金とする突発的な決断だった。

5月末、正式に退社した後、しばらくはハローワークに通いながら次の戦略を練った。その期間中、宇宙ベンチャー・White Label Space Japan(現ispace)が手がける民間月面探査チームの「HAKUTOプロジェクト」に誘われ、プロボノとして参加。

有志のチームで月面無人探査レース「Google Lunar XPRIZE」に挑戦し、民間による初の月面探査を目指した。中島さんは月面探査車の設計、開発を担当。宇宙には多少なりとも興味があったので「単純にワクワクして面白い」と感じる経験だった。

一方、事業としては、駆動開発の技術を生かせるものとして小型の風力発電に焦点を定めた。全体の一部を担う自動車部品と異なり「1から100まで自分で賄える製品」だったこと、また再生可能エネルギーで社会貢献したい、との思いもあったからだ。

2012年2月には株式会社ダイモンを設立し、小型風力発電の開発をメインに機械全般へ事業を広げた。月面探査車の事業化も視野に入れていたものの、この時点ではまだ宇宙へ切り込んでいく勇気はなかった。

その後、関東平野では十分な風力を得られなかったことから、小型風力発電の開発は断念。代わりに既存の大型風力発電機などインフラを点検する、車輪型のロボットを作るようになった。

月面探査車の開発はボランティアとして事業の合間に片手間で続けるのは難しくなり、2年ほどでチームを抜けた。しかしせっかく手がけた月面探査車だったので、自主的に開発を継続。電力会社からの受託設計でインフラ点検ロボットを作り、月面探査車の開発費を捻出するようになっていた。

インフラ点検ロボットの受託を始めて5年ほどが過ぎたころ、事業は順調だったが先行きを考えると悶々とするようになった。小型風車で挫折し、インフラ点検ロボットに商機を見いだしたのは良かったが、受託開発をしている限り企業の下請けでしかない。

もちろん仕事があるのはありがたかったが、「この先10年も、20年もずっと下請けなら、なんのために独立・起業したのだろう」、そう考えるようになったのだった。

次ページYouTubeがもたらした宇宙への切符
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事