ほぼすべてを捨てたところで、まったくどうってことなかった。私が生きていくのに必要なものなんて実に「ほんのちょっと」しかなかったのだ。
そう、私は人生で初めて「これで十分」という状態を知ったのである。それまでずっと、「これで十分」などという状態は、十分すぎるものを持ったその先にある世界だと思っていたけれど、全然そうじゃなった。私はすでに十分すぎるものを持ちすぎていたのである。
そうとわかってしまえば、これ以上のものを持てば部屋も人生も圧迫されるだけとしか思えなくなった。幸いだったのは新居が狭すぎたことで、余分なものを持てばたちまちあふれて部屋が汚くなるのだから実にわかりやすい。
となれば、余分なものを人に差し上げることに何の迷いがあろう……と、鴨長明の『方丈記』のような何もない四角い部屋で、そのような人生初の満ち足りた境地に至ったのであった。
そう気づいてから、明らかに人生が好転を始めた。
欲の器が小さいということは、すぐに満たされてしまうということである。私は人生で初めて「気前の良い人」になった。お金の使い方も変わった。自分の欲のために使うことがなくなってみると、お金の使い道なんて驚くほどないのである。
というわけで、モノだけでなくお金もプレゼントとなった。つまりはなんと、ものを買うのは自分のためじゃなくて人のためとなったのだ。
これが実に楽しい。大好きな農家の友人から1箱分のミカンを買い、近所に配る。大好きな酒蔵の酒を、知り合ったお酒好きの人に一方的に送る。まったくわれながらホトケのようだ。しかし友人も喜ぶしもらった人も喜ぶ。何度も言うが人は人に喜んでもらうことが最大の喜びなのだから言うことなし。さらには人の縁をつなげることもできる。
そもそもコンビニで水の1本を買うこともなく、日々水道水と玄米とたくあんと味噌汁さえあれば機嫌よく暮らしている人間となれば、酒の1本、ミカン1箱分のお金を捻出することなど惜しむほどのことではない。むしろ「それっぽっちのお金」で人に感謝されるという感覚である。
そう、私はお金で「徳」を買っているのだ!
かくして私の人徳は、日々着々と高まっている(はず)。
そして、そのすべてのエネルギーは、自分に欲がないということなのである。
人生とは「考え方が10割」
正直言って、こんな生き方があるということを、私は自分が実際にやってみるまでまったく知らなかった。
そして今にして思えば、この「出家」という方法、つまりは人生半ばにして欲を捨てモノを捨て再出発をするという方法は、人生100年時代という、誰もが老後不安に怯えざるをえない「長生きリスク」の時代を、何の恐怖も心配もなく朗らかに生き抜く「持続可能」な唯一の方法のように思えるのだ。
何しろ金はいくら貯めたところで使えば減っていく。つまりはいくら貯めたとて安心は決して訪れることはない。どれほどのお金持ちであろうがそれは同じことである。
だが欲さえ捨てることができたなら、急にお金が余ってくる。すると気持ちにも暮らしにも余裕ができて、気前が良くなり、徳が高まり、友達が増える。となればお金の不安とも孤独の不安とも無縁でいられる。もしそれでもお金が足りなくなれば、もっと欲を減らせば済むことである。まさにどこにも隙のない人生戦略ではないか。
人生とは考え方が10割だとつくづく思う今日この頃である。
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