エアコンも車も「もらっちゃう人」の意外な共通点 人生100年時代を生き抜く「持続可能」な方法

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しかも本人全然溜め込んでない。あげてもあげてもザルのように「みんなのため」に使ってしまう。となれば、あげるほうもエンドレスである。モノ余りの時代にこれほどありがたいことはない。というわけで、そんな奇特な方々の元にどんどこモノが集中するのは不思議でもなんでもない。

わが家はあくまで中継地点

もちろん、どんな人も彼らと同じようにできるかというと、そうはいかないだろう。お店や事業をやっているわけじゃない場合は、もらったものは基本的に、ありがたく自家消費をすることになる。

私もそうだ。

なのになぜ、私はこんなにどんどこものをもらっているのかというと、自分で言うのもなんだが、やはり私もまあまあ「欲がない」のである。

いただいたものはもちろん喜んで食べたり使ったりするけれど、食べきれなかったり使いきれなかったりすれば、すぐさま別の誰かにお裾分けをする。つまりはどれだけのものをもらっても、私の家にウッシッシとものが溜まっていくなんてことはない。わが家はあくまで中継地点であり、自分で使いきれるもの以外は、私の「人脈」でもって、本当にそれを必要としてる人の元へ、落ち着くべきところに落ち着いていくのである。

そんなふうに、いただいたものを無駄にすることなく大切に、行くべき場所に送り出していく人間とわかっているからこそ、人様は安心してモノをくださるのにちがいない。

これがもし、そうじゃなかったらどうだろうか。

以前ご紹介した、この「あげたりもらったり」を実践するアメリカのグループを追った本『ギフトエコノミー』には、こんなエピソードが出てくる。

グループの中に、もらったものをこっそり売りに出して現金に換えた人がいたそうだ。それが発覚した時、参加者たちは凄まじく怒ったのだという。一体なぜなのか。だって、一旦あげたものをもらった人がどう使おうが自由なのでは?

でも私には、その怒りの理由がわかる気がする。

もし私がそれを「あげた人」だったら、裏切られた思いがするだろう。役立ててくれると喜んでいたのに最初からそんな気はなかったのかと、真心を弄ばれたような、利用されたような気がしたに違いない。

もしかしたら何か切羽詰まった事情があったのかもしれないが、そうであれば一言、カクカクしかじかの事情でアレは売ることにしましたゴメンナサイと言ってほしかったと思うだろう。

そもそも、ここまで露骨ではないとしても、スキあらば他人から何かを掠め取ってやろうと狙っている人、自分だけがトクをしようとしている人に、何かをあげたいと思う人などいるだろうか?

もしいたらものすごくグレートだと思うが、やはり普通に考えてそんな人はあまりいないと思われる。もちろん私もあげないね。っていうか、そもそもそういう人と積極的に近づきたいとは思わない凡人である。

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