日本人と世界が知るべき経済学とモデルの限界 良い経済学者と悪い経済学者を見極める方法
真実がわかるのは、時計が止まってしまい、修理しなければならなくなったときだけである。そのとき初めて、時計がなぜ動くかをほんとうに理解していたかどうかがわかる。経済学者は、経済が理論通りに機能しなくなったときに修理する術も知らないし、なぜ機能しなくなったのか、原因に関して意見が一致することさえない。
経済の原理というものを直接目で見られないのに、隠されたメカニズムを認識することがどうしてできようか。経済学者は結局いつまでも、自分がつくったわけでもない生きたメカニズムと謙虚に戯れるしかないのである。
その点では、市場経済と呼ばれるこの壮大な奇跡を感嘆して見つめ、どうか止まらないようにと願う頭の悪い学生とたいして変わらない。
そう、経済はあの有名なプラハの天文時計のようなものだ。これをつくった時計師以外、誰も修理方法を知らない。経済学者は、経済について論評し、微調整することができるだけだーーそれも、万事がうまくいっているときに。
良い経済学者と悪い経済学者の見分け方
経済が好調で成長しているときは、経済学という学問の能力を疑う理由はなさそうに見える。だが子供が成長するのは医者のおかげだろうか。医者は、役に立つかどうかはともかく、いろいろと助言することはできるだろう。しかし子供が健康なときには、名医と藪医者のちがいはさほどはっきりしない。病気のとき、あるいは危機のときになって初めて、よい医者、よい経済学者は見分けがつくようになる。
ときに経済学は、社会科学の女王と言われることがある(これを口にするのは経済学者が多い)。経済学者は近年のグローバル経済の成長に浮かれるあまり、危機の際に経済学がどれほど役立たずだったかを完全に忘れている。危機になると、モデルは機能しなくなる。うまくいくときはうまくいくし、うまくいかないときはいかない……では、いまはどちらなのか?
危機のときは、変化が激しく、かつひんぱんに起きるため、標準的な数学モデルは使い物にならない。モデルの解釈にあたっては、十分に長期的なスパンで見ると同時に、過去の実績や直観にも頼る必要がある。アナリストが「モデルはこういう結果を示しているが、しかし私の考えでは……」と言うのをたびたび耳にしたことがあるだろう。モデルは直観で補う必要があるのだし、そのことを認めなければならない。
経済学者のように考えるのは思考の訓練にはなるとしても、それはあくまでチェスをするようなものだ。たしかにチェスはたいへん有益で、戦略的思考を鍛えてくれる。それでも、世界はチェス盤であって、駒の動きは実際の軍隊の動きに相当するとか、本物の馬はナイトのように斜め前方後方に飛ぶなどと言ったらばかげているだろう。だが中には経済学者という役割に没頭するあまり、人生には利己的・経済的以外の生き方もあり得るとは考えられなくなってしまう人もいる。
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