日本人と世界が知るべき経済学とモデルの限界 良い経済学者と悪い経済学者を見極める方法

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これは、分析アプローチに似ていないだろうか。私たちはチェスについて明確に説明できるし、チェス盤に置かれた駒の動きを分析することもできる。だが重要なことが起きるのは、最も大きなマス目、つまり六五番目のマスにおいてなのだ。そもそも、プレーヤーがいるのもそこである。

科学的、分析的に語り得ず、したがって沈黙せねばならないことは、自ずと大声を上げる。それらこそが「最も重要で最も語りたいこと」だからだ。人生には、分析的な科学が(分析を誠実かつ純粋に科学的に行うとすれば)沈黙せねばならない領域がある。それはたぶん、いちばん大切な領域だろう。

人間として、そしておそらくは科学者としても、人生の重要関心事の大半は六五番目のマスにある。現実世界の問いに対して、疑問の余地のない科学的な答えを出すのは、考えるほど容易ではない。

こうしたわけで、経済学者は二重の悩みを抱えている。理論経済学者は現実世界のことを忘れ、デカルトよろしく夢を見なければならない。さもないと、モデルを使って理論を展開することができない。その見返りとして到達する結論は、モデルと同じく抽象的で、現実世界には応用できない代物になりがちである。

その一方で、経済学者が経済学を実用的に語らなければならないとき、たとえば経済政策を論じなければならないときには、精緻なモデルのことは忘れ、無用に高度化した理論ツールは投げ捨てて、現実の経験に基づいて話す必要がある。

生きている世界の存在は、経済学者にとって重要な含意を持つ。それは、謙虚であれ、というメッセージだ。経済を考案したのも、構築したのも、経済学者ではないことを忘れてはならない。本書で繰り返し述べてきたように、経済そのものは、経済学が成立するよりはるか前から存在していた。

経済学にできることとは

経済学者は経済の建築家ではない。古代のすばらしい都市を感嘆して見つめる観光客にすぎない。経済学者は、時計の文字盤を観察して、その下に隠されたメカニズムの原理を解明しようとあれこれ試みているのだとも言えよう。

長年努力すれば、一日のある時間には長針がどの位置に来て短針はどの位置に来るかを予測できるようにはなるかもしれない。だが宇宙人や時計を初めて見る人でも、針の動きを説明する理論ぐらいはいくらでもこさえられるのだ。

この中から、所定の方法や学問的検討を経て最適のものが選ばれることになる。あるいは数学的なエレガントさや単純さを基準に、あるいは政治の都合に従って、あるいは「時計はこうあるべき」という信念から選ぶのだから、ゼンマイや歯車の複雑な関係を正しく説明する理論が選ばれるかどうかは、大いに疑わしい。

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