九州発「マルタイラーメン」が日本中で愛される訳 10年間で売り上げ1.7倍増、中国、香港でも人気

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藤田氏は玉うどんや中華麺の製造経験から「油で揚げていない生麺のおいしさ」を追求することにした。日々試作に打ち込み、夜を徹して作業に没頭する日々が続いた。

こうしてチキンラーメン誕生の翌年の1959年、「マルタイラーメン」が発売開始された。チキンラーメンが油で揚げたちぢれ麺であるのに対し、「マルタイラーメン」はノンフライ・ノンスチームで乾燥させたまっすぐな麺が特徴的な「棒ラーメン」だった。

初期のパッケージ(画像提供:株式会社マルタイ)

結果は爆発的大ヒット。食品問屋が次々と仕入れに来て、工場前には順番待ちの行列ができるほどだった。生産が追い付かず、時には問屋が袋詰めを手伝っていたという。わずか5カ月後の翌1960年には工場を増設した。

ラジオCMで流れた「煮込み3分、味一流!食べなきゃ損だよマルタイラーメン!」のフレーズは多くの人の耳に残ることになる。

昭和には、工場前に順番待ちの行列ができることも(画像提供:株式会社マルタイ)

1959年にエースコックが北京ラーメン、1960年に明星食品の明星味付ラーメンが販売され、即席麺は一大ブームとなった。

さらに同じ頃、“5秒で100%のコーヒー”の謳い文句で森永製菓がインスタントコーヒーを発売し、サントリー(当時は洋酒の寿屋)が缶入りのハイボールを発売するなど、食品業界全体がインスタントブームだった。1960年~1961年にかけて「インスタント」は最大の流行語と言われた。

激化する“ラーメン戦争”で疲弊

1971年には、日清がカップヌードルを発売開始。お湯を注ぐだけで食べられる画期的なカップラーメンの時代の幕開けで、“第二のラーメン革命”と言われた。

カップ麺は容器や具材などで値段が上がるため、「よい商品を安く」の会社方針を掲げていたマルタイはカップ麺への参入を静観。消費者ニーズの高まりを見て1975年にカップ麺を発売するが、4年の出遅れは競争の激しいラーメン業界では致命的だった。

さらにオイルショックによる狂乱物価や高度経済成長期の終焉と、成長していくエネルギーに満ちていた日本経済が大きな曲がり角に差し掛かっていた。マルタイも1981年に大きな未処理損失を計上することとなった。元々薄利多売の事業で競合が多いから原価ぎりぎりでやっていた上に、やむことのない激化する“ラーメン戦争”で疲弊していた。

その後、福岡銀行出身の新社長に迎え経営の立て直しを計った。生産ラインの見直しで徹底的に経費を削減。一方で品質向上、ラインの合理化、生産能力向上に関わる大幅な設備投資も行い、1985年1月には無借金経営に。さらに設備投資で飛躍的に高まった工場の生産能力が功を奏して、売上が倍増した。

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