人類初サイボーグが告白「私がこの本を書けた訳」 「ネオ・ヒューマン」著者独占インタビュー:中編
災いが転じて福となった最初のケースは、苛烈で根深い同性愛者への偏見に、10代のゲイだった私が、ひとりきりで闘わなくてはならなかったことです。
この経験を通じて、私の脳はいじめやハラスメントに対して反射的に抵抗することを学びました。たとえ相手がどれほど権力を持っていて、彼らに歯向かうコストがどれほど高くつきそうに見えたとしてもです。
このときに、現状を無批判に受け入れることへの免疫をつけていなければ、ALSと診断されたときにも医療の常識を疑ってみようなどとは思わなかったでしょう。ALSになったら最後、残酷な余生を過ごすことを覚悟し、おとなしく身辺整理をして、統計どおり数年以内に死ぬしかない、という常識を受け入れていたに違いありません。
私が「ALSは悪いことばかりではない」と考えるワケ
私が経験した2度目の幸運は、馬鹿げていて、矛盾していて、不謹慎にさえ聞こえるかもしれませんが、この「最も残酷な病気」そのものです。つまり、私がALSを患っているという、この事実です。
もちろん、望んでこの病気になったわけではありません。何より、愛する夫が苦しむことを思えば、断じて避けたかった事態です。一方で、私がALSになったおかげで、フランシスと私は今、本当に世の中に役立つことをするという、すばらしいチャンスを手にしているのです――世界中に影響を与えるような、価値のある挑戦をするチャンスを。
ALSになっていなければ、私たちはふたりだけで人生を楽しんでいたことでしょう。しかし、何かを成し遂げることはなかったと思います。
ところがALSになったことで、予想もしていなかった、すばらしい可能性が立ち上がりました。私たちは、希望を失った無数の見知らぬ人々に、希望をもたらすことができるかもしれません。障害者にとっての「未来」の定義を書き換え、もっと言えば「人間であること」の定義を書き換えることさえできるかもしれないのです。
これほど途方もないトレードオフを、どう評価すればいいのでしょう? 少なくとも私のケースでは(きわめて特異な事例かもしれませんが)、ALSになったのが悪いことばかりではなかったと認めないのは、あまりにも不当だという気がします。
この病気は私から多くのものを奪いましたが、その一方で多くを与えてもくれました。未来のご褒美と引き換えに、現在の私が多大な犠牲を払っているのは事実です。しかし、私たちの目標がついに達成されたなら、ピーターがずっと車椅子に座っていなくてはならなかったことくらい、本人でさえ大したことではなかったと思えるはずです。
この挑戦を、自己犠牲の物語のように捉えるのはやめてください。きっと、すばらしい冒険になるのですから! 人間として死ぬか、サイボーグとして生きるか、どちらを選ぶかって? 私にとっては考えるまでもないことです。
そして、近い将来、ALSのような難病を抱えた大勢の人々が、私と同じような考えを持つようになったら、そのときこそ世界は変わるはずです。
現状ではあまりにも多くの人々が、惨めさや怒り、不公平感を抱えながら、病と共に生きています。あるいは、毎日を狭いところに閉じ込められる拷問のようだと感じています。
しかし、重度の障害があることが、人生をアップグレードし、変身し、生まれ変わるためのチャンスだという見方が広まったらどうでしょう?
そのときこそ人類は、不死鳥(フェニックス)のごとき、不屈の存在になれるはずです。
(後編に続く、翻訳:藤田美菜子)
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