本当に必要な「怒り」知る人と知らない人の決定差 解決するのは感情的「私憤」ではなく知性的「公憤」
問題を解決することを目指し、問題解決のために何をしなければならないかを言葉で説明するのであれば、怒りの感情は必要ではなくなる。問題解決を目指す人は、自分が間違っていることがはっきりすれば、それを素直に認められるはずであり、間違いを認めたからといって、自分が負けたとは思わないだろう。
怒りの感情が起きる時の対人関係の構えは縦である。怒りの感情は自分は上で相手は下であることを明らかにするために使われるので、たとえ相手が言っていることが正しくても、認めると負けることになってしまう。
また、怒りの感情を使うことで、まわりがその怒りの感情を使う人に従ったように見えても、納得して受け入れたわけではないので、反発する機会を窺うだろう。
怒りは人と人とを引き離す劣等感
怒りの問題は2つある。
まず、それが劣等感であるということである。
「自分の意志を押し通す他の可能性を断念したか、より正確にいえば、そうするための他の可能性があることを信じていないか、あるいは、もはや信じない人だけが獲得することができる強化された動きである」(前掲書)
そのような人は、他のやり方を知らない。言葉を使って説明することは怒りのような即効性はない。自分には時間をかけて論理的に説明する力がないと思っているのであり、これが劣等感である。怒るのはこの劣等感を隠したいからである。
ただし、アドラーが言っているのとは違って、自分の意志を押し通すために怒りを使う以外の方法があるわけではない。怒りを使うのでなくても、意志を押し通すのは間違いである。
次に、怒りは、「人と人とを引き離す情動」であることである(前掲書)。怒ると、人と人との間に心理的な距離ができる。
なぜ怒りには即効性があっても有効性がないのかといえば、叱られた人は自分を叱った人を近くに感じることができないからである。
親が犯す過ちは、子どもは親からの援助が必要なのに、叱ることで親と子の心理的な距離を遠くしておいてから子どもを援助しようとすることである。しかし、親子の間に心理的な距離があれば、子どもは親が言うことが正しくても聞く耳を持たないことになる。親の言うことを聞けば負けると考えるからである。