本当に必要な「怒り」知る人と知らない人の決定差 解決するのは感情的「私憤」ではなく知性的「公憤」
怒りの感情はある目的のために創り出される。あるいは、怒りが人を動かすのではなく、怒りという感情を使って何らかの目的を達成しようとするのである。「ついカッとして怒った」と言いたい人はいるだろうが、そのように言う人は自分が怒りの感情を創り出したことを認めない。叱ることと怒ることは違うと言う人がいるが、自分は感情的になっていないと思っているだけで、実際には怒っている。感情的になることを認めたくない人は、怒りを爆発させた時に、本当は自分は感情を抑えられるが、「ついカッとして怒った」と言うことで自分をいい人に見せたいのである。
怒りで勝っても解決はしない
大きな声を出して怒る人は、まわりの人を自分の思う通りに動かすために怒るのである。問題は、怒りによる問題解決には即効性はあるが有効性はないということである。怒られた人は恐れをなしてそれまでしていたことを止めるかもしれないが、また同じことをする。もしも怒りが問題を解決するための方法として有効であるならば、一度怒られた人は二度と同じことをしないはずである。
しかし、そうはならずにまたすぐに同じことをしてしまう。実際には、本当に小さな子どもでなければ、なぜ自分が叱られたかがわかっているはずである。しかも、 叱られるという形でも注目されようとしているので、この場合も、たとえ一時的に問題が解決したように見えても、また同じ問題が起こる。
自分が正しいと思っていると、たとえ感情的になっていなくても、相手との権力争いが起こる。権力争いになると、問題の解決は容易ではなくなる。
権力争いになると問題を解決することはもはや重要ではなくなり、自分が正しいことを相手に認めさせることだけが重要になる。アドラーは次のようにいっている。
「敵がいなければ怒りがないように、この情動は勝利を収めることだけを目標として持っている。われわれの文化においては、このような大きな動きによって自分を押し通すことは、好まれ、なお可能な方法である。このような方法で自分を押し通す可能性がなければ、怒りの爆発はずっと少ないだろう」(『性格の心理学』)
自分を押し通して勝利を収めることと問題を解決することは別である。相手に勝つために怒りを使うのである。このようなやり方が好まれるのは今の時代も同じだが、怒りを使って勝つことは「可能」であっても、問題解決には繫がらない。