江戸中期「中国離れ」が現代日本人の基礎を作った アイデンティティを左右した「中国との距離感」

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その流れが変わるのは18世紀から。1つは空間的な変化で、19世紀初頭の文化・文政時代まで丸々1世紀をかけて、文化の中心は上方から江戸へ移ります。これを契機として、日本の文化はようやく上方独尊体制から日本全体へ拡散していくのです。同時に階層的な変化も起こり、漢学の担い手は下級武士層にひろく普及します。

また17世紀末あたりから上方では、武士の漢学ばかりではなく、町民にアピールする文藝もできてきます。有名な井原西鶴や近松門左衛門などの作品や、中国の小説の舞台や人物を日本に置き換えた「翻案本」などが出回り、それが文化・文政時代あたりには、いっそう幅広い層にまで浸透しました。庶民が書物・文化に親しむようになったのです。

日本の自立と「中国離れ」

こうした読み書きのリテラシーは、漢学で身につけました。仏教のお経も漢字を使いますが、その使い道はすでに葬式に特化していました。それに対して儒学は、倫理道徳の教えでしたので、学問以前の人間修養の面で、まず庶民もふれるものだったのです。

もともと歴史の浅い日本は、ほぼ全員が農民のフラットな社会でした。農民から職業的に分離した武士が、戦国時代から江戸時代にかけて為政者となり、漢学もまず武士層が従事しますが、秩序が安定し、平和が持続しますと、庶民も漢学を通じて読み書きのリテラシーを身につけました。

これにより、みなが共通の書物を読んで、文化・道徳のレベルが空間的にも階層的にも均質一様になり、日本はふたたびフラットな社会に戻ったように思います。これが現在の日本人に直接つながっています。

いっぽう漢学に対する学問的な信頼は、蘭学が流行するにつれて揺らぎます。漢学がすべて正しいわけではない、それなら中国は決して世界随一の大国ではないし、文明的に最先端でもないと気づきました。

漢学はもちろん、その蘭学も日本固有の学問ではないとして、やがて「国学」が編み出されます。そこで問われたのは、現政権・幕府の存在理由とともに、そもそも日本とはどういう国なのか、日本人とは何者なのか、ということです。その象徴的な存在が、たとえば本居宣長の『古事記伝』でしょう。

国学のもう1つの特徴は、漢学普及の反動であるかのように中国批判を含んでいることで、やはり「中国離れ」の所産です。代表的な国学者・平田篤胤は、「中国の偉人は孔子と諸葛孔明の2人だけ」とまで述べています。今日でも嫌中論は喧しいですが、その原点はこのあたりにあるでしょうか。

見方を変えれば、日本のアイデンティティは善くもあしくも、中国が隣国だったからこそ生まれたといえます。「倭寇的状況」で中国とのつながりが深まった16世紀から、江戸時代を経て19世紀に入ると、政治・経済のみならず文化や思想的にも「中国離れ」をなしとげ、西洋に近づきつつ、日本独自のものができあがっていったのです。

岡本 隆司 京都府立大学文学部教授

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おかもと・たかし / Takashi Okamoto

1965年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。『属国と自主のあいだ』『明代とは何か』『近代中国と海関』(共に名古屋大学出版会)、『世界史とつなげて学ぶ中国全史』『中国史とつなげて学ぶ日本全史』(共に東洋経済新報社)など著書多数。

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