江戸中期「中国離れ」が現代日本人の基礎を作った アイデンティティを左右した「中国との距離感」

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このような、いわば「中国離れ」は、貿易・物産のモノばかりではありません。物心両面といいますが、「心」・文化的な側面でも、いっそう中国と距離を置くようになります。

3代将軍家光から5代将軍綱吉あたりまでの100年弱の間に、幕府は文治政治を志向しました。文治政治は以前の武断政治と対になる言葉で、儒学に基づいた徳治主義の政治手法を指します。戦争・軍政は終わったので、道徳・学問・典礼を基軸に統治をすすめようとしたのでしょう。

当時は学問・道徳といえばほぼ儒学のみ、武士・為政者たちの儒学・漢学へのリスペクトが土台になりました。この時代に建てられた湯島聖堂がその間の事情を象徴しています。それにともない、漢籍も中国から大量に流入し続けました。

ところが18世紀に入ると、その流れが変わります。急先鋒が8代将軍吉宗です。その「享保の改革」はあまりにも有名で、どんな教科書にも載っていますが、中国・儒学に着眼して考えると、そこにまた違う意義が見いだせるのではないでしょうか。

文治政治を嫌い、武断政治を復活

武人肌の吉宗は文治政治を嫌い、武断政治を復活させようとしました。儒学は繁文縟礼・文飾に流れるからです。文飾は虚飾につながり、実態から遊離した政治になりがちです。吉宗は儒学・道徳にむしろ対立する法律を重視し、現実に即した法規制による統治を志向しました。調査と法治、これが一連の改革の根幹になります。

「享保の改革」でも「公事方御定書」という法制整備は有名ですし、また全国各地の民治に対する実地調査も励行しました。それは同時に、国政が中国モデルに傾くことを警戒した統治をも意味します。

吉宗の政策といえば、財政を潤すための新田開発が思い浮かびますが、これもこうした調査による政策実施と関わりの深いものです。加えて、上に述べた適地適産への方向づけも、政治的には同じ文脈で実施にいたっています。

また吉宗は蘭学を奨励したことでも知られています。これも人文・倫理に傾く漢学よりも、理工・科学を好んだ吉宗らしい態度ですが、やはり「中国離れ」の一環ともいえます。

それでは、リスペクトを受けていた儒学・漢学はどうなっていくのでしょうか。

文化や学問は都市で栄えますが、室町時代まで、日本で都市と呼べるのは京都だけでした。それが戦国時代になると、地域開発と経済成長が相まって各地に都市が出現します。とはいえ、小京都の異称が残っているように、まだ京都をコピーするのが精いっぱいでした。

江戸時代には地方都市も独自の発展を遂げますが、初期はまだ京都と隣接する大坂、つまり上方が文化のトップランナーであり続け、「倭寇的状況」の継続で入ってきた中国文化が盛んになります。漢学の普及に先鞭をつけたのも上方です。

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