次に、経済への悪影響(本書にあるように、広い意味ではクラウゼヴィッツのいう「摩擦」に当たる)を最も効果的に防止できる手段は何かという点である。短期的な経済社会への悪影響は甘受しても感染を抑えきることなのか、それとも感染と共存しながらも経済を回していくことなのか。今の視点でいえば、ワクチン接種による重症化予防を取り入れたイノベーティブな経済と感染予防の両立の仕方(ワクチン接種者には旅行や飲食、イベントの参加等の制限を緩和するなど)がこれに当たるだろう。
さらに、ゲームチェンジャーとしてのワクチンについて、なぜ国内での研究開発が遅れたのかという分析(批判ではない)が重要である。「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹いた」とも指摘される高度成長期のワクチン訴訟の影響、SARSやMERSを回避しえたという「幸運に起因する悲劇」など、今後のことを考えると種々の示唆を与えてくれる。
また、ワクチンの海外産品についても、その確保約束は遅かったのか、輸入時期はどうだったのか、承認には国内治験が必須だったのか(国内治験は予防接種法改正時の国会の附帯決議によって求められている)など、ワクチンの購入および接種にかかる費用に関する国の負担の明記、悪意や犯罪行為がない限り、損失補償の国による肩代わりする制度の導入によって、通常ではありえないスピードアップを支援する体制を取っただけに、「あと(接種開始が)3カ月早ければ」と思うのは私だけではあるまい。
平時に備えておくべき有事の「権限」設定
感染症の危機管理は、病原体が国境を容易に越えてしまうだけに、一国孤立主義ではできない。ただし、国民国家においては、民主主義に基づき投票で政府のトップを選び、逆に「長」は選んでくれた国民の安全を保障する立て付けになっている。
国内対策に加えて、海外への支援をどのように考えるかについては、冷たく言えば、愛他的理由を除けば、最低限、国内への流入が一定規模を上回り、対策を強化しなければならなくなる際に国外での流行を抑えるための支援を行う必然が生ずるともいえる。海外に対する軍事的選択肢が限定されている日本の外交に、誰にも反対されにくい「保健」を有効な手段としてどう生かすかが問われている。
パンデミックが社会に与える影響については、「感染が拡がる速さ」「感染の拡がる程度」「感染が持続する期間」の3次元で規定されるといわれる。このうち、「どの段階で」「誰に」「どのような時限的(独裁的)権限を与えるか」について、事後の検証のやり方も含めて、事前の平時に明らかにしておかなければ、パンデミックの再来時に今回と同じ轍を踏む可能性があるのではないか。
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