まずは、「平時」と「有事」の切り替えの必要性ではないか。平時には時間もあるし、民主的な手続きをしっかりと踏まえて、民意を反映した施策を実施すればよい。ただし、時間と資源に限りがある有事の際に一定の成果を実現するには、異なった意思決定のモードが必要とされるのではないか。
次に、「地方分権」と「中央集権」のバランスである。外交や安全保障を除き、自らが居住する自治体において、自らが選んだ首長が事業を実施し、それが気に入らなければ、引っ越すか次回の選挙で意向を反映すればよい。しかし、国全体が巻き込まれたパンデミックで、適切な対応を瞬時に取るための基礎データの把握や、どこに居住していても一定レベルのサービスが享受できるような制度の履行について、過度に自治体の独自性が許容されるのはいかがなものだろうか。
表面的完璧主義による批判と限られた時間と資源
さらには、目につく「ほころび」を批判する表面的完璧主義と、限られた時間と資源の中で一定の犠牲はやむをえないとしながらも最大限の効果を求めるトリアージとの相克である。一般医療への悪影響を極力防止しようとすれば、自ずとコロナに振り向けられる病床と医療従事者は限定され、それにより犠牲者が生ずることもある。それは目に付きやすいために批判の対象となりやすいが、反対に、脳卒中や心筋梗塞の患者が受け入れられずに死亡者が増加することを回避した点については誰も論評しない。
さらに、一般にマスコミ等で議論されることは少ないが、重要な考慮点はほかにいくつもある。
まずは、科学的不確実性の中での政策決定(本書にもあるように、クラウゼヴィッツのいう「霧」)については、成否がわかってからでは遅すぎるが、その前に決定するにはリスクが伴う。したがって、論点は、どのようにそうしたリスクを最小化するかであるが、不確実であるからゆえに決定は批判を受けやすいし(本書が指摘する、「後医は名医」という後知恵を戒める「批判の作法」は重要)、不確実性が高ければ国民に対してエビデンスを示して説得力のある説明をすることも難しい場合も多い。国民に対して、直面している困難と失敗するリスクを含めて、それでも「今こうしたことを実施しなければいけない」という切迫感のあるコミュニケーションが図れるのかどうかが成否を決定する。
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