アウシュヴィッツ生還者が見た非道な人々の仕業 「モラルは失ったが最後、取りもどす薬はない」
心の弱い人は確実にモラルをなくした
「モラルを失えば、自分を失う」。これはナチスをみてすぐにわたしが学んだことだ。ナチス政権下で、ドイツ人がすぐに悪人になったわけではなかったが、簡単に操られるようになった。心の弱い人たちはゆっくりとだが確実にモラルをなくし、ひいては人間性までなくした。
そして、他人を拷問しても、家に帰れば妻や子どもたちと向き合える人間になった。わたしはよく、彼らが子どもを母親から引き離し、その子どもの頭を壁に叩きつけるのを目撃した。そんなことをしたあとで、食事をして眠れたのだろうか。わたしにはそれが理解できない。
親衛隊の兵士はときどきおもしろ半分にわたしたちをなぐった。彼らのはいているブーツは先端が鉄製でとがっていた。彼らはユダヤ人が通りかかると、「Schnell(シュネル)! Schnell(シュネル)!(急げ! 急げ!)」と叫んで、尻と脚のつけ根のあいだのやわらかい部分を思い切り蹴っては、ほかの人間を傷つけるという残酷な快感を味わった。蹴られると深い傷ができ、痛くてたまらず、食事や休む場所がなければなかなか治らなかったが、わたしたちにできるのは、傷を布で押さえて止血することだけだった。
あるとき、収容所を歩いていたら親衛隊になぐられて鼻の骨を折られた。理由をきくと、Juden Hund(ユーデン・フント)、ユダヤ人の犬だからだと言われ、もう一度なぐられた。
しかしこれは噓だ。ナチスの犬の扱いは被収容者の扱いよりもずっとよかった。兵士のなかには、わたしたちが恐れる残酷な女がいた。女はわたしたちをなぐるための警棒をつねに持ち歩き、どこへ行くにも攻撃的な大型のジャーマンシェパードを2、3頭連れていた。女は犬にとてもやさしく、いつも「Mein liebling(マイン・リープリンク)」、かわいい子、と呼んでいた。ある日アウシュヴィッツにいた幼い子どもが「大きくなったら犬になりたい」とわたしに言った。ナチスは犬にとてもやさしかったからだ。