アウシュヴィッツ生還者が見た非道な人々の仕業 「モラルは失ったが最後、取りもどす薬はない」

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仕方なくナチスに従っている民間人もたくさんいた。工場で働いていたとき、監視係が小声で話しかけてくることがあった。「トイレ休憩は何時だ?」。そして休憩時間にトイレに行くと、牛乳で煮たオートミールの入ったブリキのカップが置いてあった。十分な量ではないが、体力の足しにはなった。それに、世のなかにはまだいい人もいるのだと、希望がわいた。

しかし、善良なドイツ人がその気持ちを伝えるのは難しい。相手が信頼できるかどうかを知る必要がある。もしユダヤ人を助けているのがばれたら、自分たちが殺されるからだ。抑圧者はつねに被抑圧者を恐れている。これがファシズム——すべての人間を犠牲者にしてしまうシステムだ。

IGファルベン(今は解体された化学薬品と製薬の合同企業)で働いていたとき、被収容者に食料を届ける男性と親しくなった。名前はクラウス。月日がたつにつれ、わたしたちはお互いをよく知るようになった。クラウスはナチスではなく民間人だったので、可能なときは余った食料をこっそりと持ってきてくれた。

彼らは食料を車で工場に運ぶのが仕事だった。小さなブリキのカップを持って並ぶわたしたちに、樽からオートミールを配り、空になった樽を持って帰る。食べ物はひどく粗末だったが、クラウスに余り物をもらうたびに、生き残る可能性が高くなったのは間違いない。

ドラム缶を使った逃亡計画を実行

あるときクラウスは、わたしがひとりでいるところにきて、逃亡計画を思いついたと言った。食べ物が入ったドラム缶のひとつに黄色の太い線を描くよう、運転手に頼んだというのだ。そのドラム缶はなかにチェーンがついていて、わたしが空になったドラム缶に入ってそれを思い切り引っぱるとふたが閉まる。

その後ドラム缶をトラックに乗せるとき、彼はその缶をトラックの左後ろに置く。そしてトラックが収容所を離れて安全な場所、アウシュヴィッツと工場の中間地点まできたら、笛を吹いて知らせる。わたしはトラックが角を曲がるときに、体をゆらしてドラム缶ごと転がり落ちる、という計画だ。

わたしたちは計画を練り上げた。計画実行の当日、わたしはかなり緊張しながらもわくわくしてドラム缶に入った。必死にチェーンを引っぱり、トラックに積まれるときに音を立てないよう息を止めた。エンジン音がし、トラックは動きだした。トラックは予定通り高速で走り続け、やがて笛がきこえた。トラックから降りる合図だ。わたしはドラム缶の片側に体重をかけ、トラックから転がり落ちた。

トラックから落ちたドラム缶は、わたしが入ったまま下り坂をタービンのように転がっていった。チェーンにしっかりとつかまったが、速度はどんどん上がっていく。しばらくしてドラム缶は木に激突して止まった。目が回り、少しあざはできたが、どこもけがはしていない。自由になった!

次ページ計画は完璧にうまくいったが…
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