1981年、巨人のアメリカキャンプに初参加した鹿取は、目を疑うような光景を目にした。同じ敷地内で練習していたメジャーリーガーが、肩を氷で冷やしていたのだ。現在でこそアイシングは少年年代も取り入れるような常識となっているが、当時の日本では「肩は絶対に冷やすな」とされていた。その教えと反対のことをするアメリカ人を、鹿取は冷ややかな視線で見ていた。
だが80年代半ば、その常識は180度変わる。アメリカで故ジョーブ博士にヒジの手術を受けた村田兆治が帰国後、アイシングを始めたのだ。
「えっ? アイシングってやっていいんだ?」
それが鹿取の偽らざる心境だった。以降、日本で非常識とされていたアイシングは急速に広まっていく。
同時に、科学的トレーニングがアメリカから輸入された。鹿取によると、そうしたトレーニングは「やってはいけない」ものとされ、ダンベルくらいしか使用していい器具はなかった。しかも、目的はケガの防止だった。
常識とは、極端に変化するもの
しかし村田の復活とともに、アメリカが誇る最先端のメソッドがケアやトレーニングに導入される。鹿取は「アメリカで『何をやっているんだ』と思ったことが、後に『正解だった』と気づいた」。常識とは、それほど極端に変化するものだ。同時に枠に捉われない発想をすることで、未来の常識を作り出すこともできる。
現役時代、巨人や西武の守護神として実働19年で91勝46敗131セーブの成績を残した鹿取は、速いストレートを投げられるわけではなかった。そんなサイドスロー投手が球史に名を残すことができたのは、打者を抑える術を突き詰めたことにある。
日本では右投手が右打者にシュートを投げる場合、内角に投げて詰まらせるのが長らくセオリーとされてきた。しかし、鹿取の飽くなき探究心は、思考をその枠にとどまらせなかった。外角からストライクゾーンにシュートを曲げたら、打者はどんな反応をするだろうかと考えた。
「生きるためには、いろんなことをやっていかないといけなかったからね。シュート=インコースではなく、シュート=外と勝手にやっていた。キャッチャーのサインに首を横に振ってね。他のピッチャーより三振を取れないなど、劣っていたからこそ生まれた技術だと思う」
現在、シュートと似た軌道を描くツーシームが頻繁に使用されるメジャーリーグで、外角のボールゾーンからストライクに変化させる用法は「バックドア」としてセオリーになっている。内角からストライクゾーンに曲げる「フロントドア」という言葉とともに日本でも定着し、プロ野球でも目にする用法だ。鹿取は自ら考え、そうした潮流を先取りしていた。
スピードやパワーで相手に勝てないなら、他の点で上回らなければ勝負の世界で生き抜くことはできない。ある部分の劣等感を受け入れたことで、鹿取は観察眼という武器を手にした。
「いつもと同じタイミングでシンカーを投げたのに、たまたま指に引っかかって緩いボールになったとき、バッターの反応がおかしかったら『これは使えるな』とヒントをもらえるわけです。そのボールを磨いていけば、自分の幅がどんどん広がっていく。カットボールも低めだけではなく、胸元に投げたり。それで凡打してくれれば、『ここはミスるんだ』ってなる。そういうことの積み重ねですよね」
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