フィリピン大統領選へ1年、ドゥテルテ継承の有無 国民の高い支持、日米の安全保障環境にも影響

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他方ドゥテルテ氏は日本への好感を隠さず、安倍晋三前首相をダバオ市の自宅に招いて朝食をともにするなど親近感を示してきた。それでも中国寄りの姿勢を変えるわけでもなかった。就任後、ASEANを除く初の外遊でも日本の要請を脇に置いて中国へ出向いた。

第2次大戦後、フィリピンの独立を認めたアメリカはルソン島中部のスービックに海軍基地、クラークに空軍基地を置き、南シナ海をはさんで対岸にあるインドシナへの出撃拠点とした。ベトナム戦争が終了した後も両基地を維持したが、1992年、フィリピン上院が基地協定に代わる条約の批准を拒否して、撤退が決まった。

米軍地位協定が力の空白を埋めた

冷戦が終結していたうえ、クラーク基地に近いピナトゥボ火山が前年に噴火し、大量の火山灰が滑走路を覆ったため、アメリカ側も基地存続を積極的には求めず、上院の多数派工作にも乗り出さなかったとされる。両基地の必要性を感じなくなったアメリカと、マルコス政権を無血で崩壊させた「ピープルパワー革命」でナショナリズムが高揚していたフィリピンのベクトルが一致した結果の撤退だった。いわば「協議離婚」の形でアメリカはフィリピンから去っていった。

ところが、これをみた中国は1995年、スプラトリー(南沙)諸島の一角にあるミスチーフ礁に建造物をつくった。後年の南シナ海軍事基地化の最初の一歩である。フィリピン国軍出身でウエストポイント(米陸軍士官学校)に留学経験もあるフィデル・ラモス大統領(当時)は危機感を抱き、アメリカとの間でVFAの調印にこぎつけた。アメリカ兵を基地に常駐させなくても訪問を可能とすることで力の空白を埋めようとしたのだ。

21世紀に入り、同時多発テロを経て、ブッシュ(子)政権下のアメリカの視線は中東に集中し、アジアへの関心は薄れた。跡を継いだオバマ政権が「アジア回帰(リバランス)」を掲げたものの、軍事力行使を避ける「戦略的忍耐」は北朝鮮の核開発進展と並び、南シナ海における中国の岩礁埋め立てを許す結果となった。

アメリカはトランプ政権後半になってようやく、アジア太平洋地域における中国の軍事的膨張に警戒を強めたが、見渡したところ、日本とオーストラリア以外に信用できる同盟国はこの地域に存在しないことを意識せざるをえなくなった。リーマンショックを経て、アジアのすべての国で貿易相手国のトップは中国となり、経済的な影響力はアメリカをはるかにしのぐようになっていた。劣勢の中でアジアで唯一、植民地時代から強い絆で結ばれていたはずのフィリピンがVFAを反故にしかけた衝撃はアメリカにとって小さくなかった。

旧宗主国のアメリカに対して、多くのフィリピン人、中でも支配層やインテリは憧憬と反発の入り混じるアンビバレントな感情を持っている。歴代大統領の中で、ドゥテルテ氏ほどアメリカへの反感を露骨に示す大統領はかつていなかった。アメリカ訪問時の個人的な体験など理由には諸説あるが、自らを「社会主義者」と称し、左翼思想の影響を受けていることを隠さないドゥテルテ氏の嫌米は筋金入りだ。

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