変形してしまった「バブル五輪」をどうすべきか コロナでややこしくなった東京五輪で考えた

✎ 1〜 ✎ 74 ✎ 75 ✎ 76 ✎ 最新
著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

ただ、私は男子サッカー、野球、テニス、ゴルフなどはまったく関心がない。なぜなら、ファンダメンタルズとしての競技の最高峰のものではないことが明らかだからだ。一方、男子ホッケーなどは、いちばん応援したい種目の一つである。

今、必要なのは、原点から見直して、スポーツ競技としてのファンダメンタルズとして行われる世界一の競技会としてのオリンピックの部分をこれまで以上に大切にすることだ。

そして、必需品としてのバブルとしての世界選手権や、観客の応援を必要とするオリンピックをどう考えるべきか。たとえば、ある日本の男子サッカーの代表は「観客のいないところでプレーするなど考えられない」という趣旨の発言をしたと伝えられているが、これには賛否があってよいと思う。

私は、それは甘えだと思うし、そういう選手は応援したくはない。また、2011年の東日本大震災後「見ている人に力を与えたい」、とワンパターンでコメントする競技者が増えたが、これはどう考えればいいだろうか。自らのために、自分が好きだから競技を行い、頑張り、そして競技後に淡々と、しかし誠実に、声援に感謝を述べるスピードスケートの小平奈緒のような選手を、私個人としては尊敬している。

ただし、それはそれぞれの自由だろう。プロテニスの大坂なおみ選手がインタビューに答えようが答えまいが、基本は自由であるのと同じことだ。

多くの日本人が不快に思っていることとは?

そして、オリンピックでのカネの動き、スポーツでもなんでもいいからお祭りを行うことによって、経済を活性化する、社会を盛り上げる、単に騒ぐ、こういったことはバブルとしてのバブルオリンピックだ。

私は、これを全否定したいし、諸悪の根源だと思っている。一方で、これこそが、オリンピックをやる意味だと思っている人々もいるし、普段はスポーツには関心がないが、オリンピックは一緒に盛り上がりたいと思う人々もある。

人それぞれであり、重要なのは、これらのバブルとしてのバブルオリンピックと、必需品としてのバブル、競技からの感動、そしてその感動が競技をさらに高みに引き上げるという必需品バブルと明確に区別することである。

そして、これをドロドロしたものとすべて否定するのも間違いだ。今回、多くの不祥事が出た部分は、バブルの中のバブルの部分から派生したものであり、必需品としてのバブルとは関係がない。今回のオリンピックは、コロナがきっかけで大変な騒ぎになったが、コロナが悪いだけで騒動が広がったわけではない。近年のオリンピックという興行の底流に渦巻いていたものが、さまざまに現れてきたということだ。

とにかく祭を盛り上げようとしているのに、邪魔するな、バブルとしてのバブルのオリンピックの部分を、全国民に強制的に一緒に盛り上がれというような同調圧力。これが、今回、当初、日本の人々の多くが不快に思った部分だろう。コロナ、オリンピック、そのほかのイベント、日常生活、普通の経済活動、これらを普通に、等しく扱うべきなのに、とにかくオリンピックという上からの動きへの反発だった。

一方、オリンピックの準備が大混乱し、これに乗じて、コロナ感染という現象を使って、政権や主催者をとにかく批判する、何よりも命優先という錦の御旗への、逆側の同調圧力が開催直前に強まったが、これも適切でない。

そうではなく、賛否はあろうが、競技としての純粋なオリンピックが行われるという部分は、確実に残っているのだから、そこを大切にしつつ、それぞれが自由に受け止める、楽しむ、感動する、そして全力で戦う、ということを可能にすることが重要だと思う(本編はここで終了です。次ページからは競馬好きの筆者が週末のレース予想や競馬論を熱く語るコーナーです。あらかじめご了承ください)。

次ページさて競馬コーナー。今回は「一口馬主」のお話
関連記事
トピックボードAD
マーケットの人気記事