変形してしまった「バブル五輪」をどうすべきか コロナでややこしくなった東京五輪で考えた

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その後、エンターテインメントしてのオリンピック、開会式をショーとして盛り上げ、オリンピックを開催する主催者となることで、その国、その都市が威光を誇示し、経済的なイベントとして利用し、そしてそれを利権として利用することが、表立って大々的に行われるようになった。

誰もバブルの勢いをとめられなかった

開催都市の競争をあおり、それは2002年のソルトレイクシティー開催での賄賂スキャンダルにより、終焉するかと思われた。

だが、バブルの勢いは止められず、このバブルは、もはや必需品のバブルを離れた、バブルとしてのバブルだったが、バブルとしてのバブルに依存する人々と組織が自己増殖をすでに始めてしまっていた。そして、今回、このバブルとしてのバブルオリンピックは、コロナにより終焉するかもしれない状況に陥っている。

今回の東京オリンピックは、周知のように賛否両論が渦巻いている。開会直前になっても開会になっても、依然「今から中止せよ」という声も上がる。コロナの陽性確認者数は、日本においては、この1年半で最速で増大しており、エンターテインメントの部分の担当者のスキャンダルが相次いでいることも無縁ではないだろう。

その一方で、女子ソフトボールが始まり、女子サッカーなども始まっている。私も全力で応援した。

私は、オリンピックにすべて否定的と思われているようだが、そうではない。ファンダメンタルの部分のスポーツに関しては、日本の経済学者のなかでは、もっとも熱く応援している一人だと思う。

しかし、バブルとしてのバブルのオリンピックには全否定である。コロナとは無関係に、開会式にも聖火リレーにも、あらゆるイベントには興味がないし、無駄だと思っている。新しい競技場も無駄であり、カネは貧しいマイナースポーツの選手への支援と、青少年のスポーツ普及、引きこもりやさまざまな問題を抱え、スポーツをすることなど自分では思いもよらない青少年がスポーツを行うことへの支援として使うべきだと思っている。高齢者のスポーツ支援なども、もちろんだ。

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