ANA元社長が語る希代の財政家・山田方谷の魅力 コロナ危機の今こそ「至誠惻怛」が身に染みる

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全日本空輸の社長を務めた大橋洋治氏は、トップとして山田方谷の言葉を座右の銘としたと語る(撮影:尾形文繁)
2001年のアメリカ同時多発テロによる世界的な航空需要の減退に始まり、2002年~2003年のSARS、2004年の鳥インフルエンザの流行、さらには2002年の日本航空(JAL)と日本エアシステム(JAS)の 経営統合――。
2000 年代初頭、 全日本空輸(ANA)にはさまざまな危機が振りかかった。その危機を乗り切ったのが、当時社長を務めていた大橋洋治氏だ。現在、ANAホールディングスの相談役を務める大橋氏が座右の銘としていたのが、故郷・岡山県高梁市出身の財政家・山田方谷(やまだ・ほうこく、1805年~1877年)の言葉である。
山田方谷は徳川幕府 11 代将軍・徳川家斉治世下の文化2年(1805 年)、備中松山藩領の西方村(現在の岡山県高梁市)に生まれた。農民出身ながらその才覚を藩主・板倉勝静(いたくら・かつきよ)に見出されて武士となり、松山藩の家老として財政を建て直した財政家である。
当時松山藩が抱えていた10万両もの借金をわずか8年で完済したうえ、逆に10万両を蓄財する実績を残し、明治維新後も何度も明治政府への出仕を望まれながら固辞し続け、教育者として一生を終えた。
全国的には無名ながら、明治政府に出仕していれば、多大な功績を残し、学校の教科書にも登場する著名人となっていた可能性もあるとされる人物だ。

岡山では銅像になるほど偉い人だった

――大橋さんと山田方谷との出会いはどういったものだったのでしょうか。

山田方谷のことは小学生の頃から知っていた。私は5歳のとき、満州のハルピンで終戦を迎えている。父がシベリアに抑留されていたので、私と母は終戦の翌年に一足先に日本に引き揚げてきて、しばらくの間は故郷である岡山県高梁市の叔父の家にやっかいになっていた。

その叔父の家に毎晩遊びにきていたのが、方谷の義孫の山田準さん(1952 年没。漢学者で二松学舎専門学校初代校長)だった。叔父の家は方谷と同じ松山藩の家老の家で、方谷関連の資料をたくさん所蔵していた。準さんは当時、『山田方谷全集』を執筆しており、その資料調べという名目で毎晩やってきては叔父と酒を酌み交わし、詩吟をうなっていた。

私が通っていた高梁北小学校にも山田方谷の銅像が飾られていて、銅像になるほどの人だから、さぞ偉い人なんだろうと思っていた。準さんも、その偉い人の孫なのだから、やっぱりさぞ偉い人なんだろう、という程度の理解だった。

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