では菅政権と安倍前政権の違いは何か。前政権はとにかく支持率で徹底していた。支持率を上げて、政権を長寿化させて、それで「本当の目的は何か」ということは事実上完全に棚に上げて、とにかく目先の支持率、その結果としての長期政権ということで貫徹した。だからうまくいった。
菅首相は、彼らしく「仕事がしたい」と言い続けた。本音だろう。しかし、問題は、その「仕事」というのが、何を指すのかはっきりしない。仕事の目的がはっきりしないのである。
どうも、これは日本軍と同じで、何かをこなしていたい、何かを忙しくしていたい、動きたい、ということに過ぎない。その結果が「Go To」であり、学術会議であり、自分らしく戦うことであった。しかし、これがうまくいかず行き詰まると、とりあえず「政権の危機だから」と初めてはっきり危機対応に舵を切った。
この結果、今度は首相が世論の顔色を見て、その場の雰囲気で意思決定をすることになった。目的ははっきりしているが、軸はない。軸がないなら、気まぐれな人々、民衆に振り回される。
これが日本的民主主義、本当の民主主義、ボトムアップかもしれないが、首相は単に世論の下僕に過ぎなくなってしまう。この根本的な理由は、人々に目的がないからである。これがアメリカなら、例えば貧困層なら左のロジックがあるから、民衆の言いなりでも自然に軸はできる。日本にはない。その場の気分で人々は何かを求める。目的があれば、それに即した政治家、首相を選ぼうとするが、そういう意図を見たことがない。
日本の重大な欠陥は、最終目的を持たずに、人々が生きており、企業が活動しており、社会が成立していることである。個人的には、生きる意味などない、動物として生まれたから、運命と本能に強いられて、生きているだけだ、と思っているから、目的などないし、わからないということに共感を持つ。ただし西洋的な合理性という観点からは、個人の行動も組織の行動も理解することはできない。ただそれだけのことだ。
日本では組織が過大評価されている
最後に『失敗の本質』で、野中郁次郎氏らは失敗の教訓として、組織が自己革新することの重要性を説いている。だが個人的にはこれは間違いだと思っている。次回以降に議論したいが、そもそも組織が学習することは不可能である。
さらに言えば、日本の研究者、そして日本のビジネスピープルたちは、組織を過大評価している。個の単なる集合ではできない革命的なことが、組織だと可能になると考えているようだが、違う。
組織は必要悪であり、個の単なる合計では動かないから、何か動かすメカニズムが必要だから、使われているだけで、個の価値の合計を超えることは決してできないのだ。組織は常にマイナス、コストであり、それを最小化することがベストの組織なのだ。
組織が学習するのではなく、個人が学習するのであり、それを組織に残しておくことはできず、あくまで個から個に伝えるだけで、それが組織に残っているように見えるだけのことだ、と私は考えている。そして、個もそう簡単には学習せず、失敗から学ぶ個人はこの世にほんのわずかしかいない(本編はここで終了です。次ページ以降は競馬好きの筆者が週末のレースや競馬論を語るコーナーです。あらかじめご了承ください)。
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