実は失敗も多い渋沢栄一、500社作れた真の理由 混迷の時代に必要な「理想を求めて突破する力」

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渋沢は岩崎の独占状態を打破するため、海運業へと乗り出していく。井上馨らに働きかけ、三井を中心に共同運輸を設立。岩崎が率いる郵便汽船三菱会社との熾烈な戦いは、実に2年半にわたって勃発した。結果として、両者痛み分けで合併の道へ。日本郵船として生まれ変わることになる。

渋沢と岩崎はまさに「犬猿の仲」だった。だが、その一方で、財界人として協力し合う場面も見られた。互いに優れた国際感覚を持つ者同志である。方針は違っても認め合っていたのだろう。

岩崎の提案に乗らず、渋沢はそれからも「国のためになる事業」であれば粉骨砕身して、合本会社の立ち上げに協力している。とりわけ苦労が多かったのが、東京人造肥料株式会社(現在の日産化学)の立ち上げである。この人造肥料の事業を興したときは、渋沢以外の関係者が、なんと全員逃げ出してしまったのだ。

そもそもは農商務省の技師である高峰讓吉から提案されたのが、きっかけだった。日本で使用されている人糞や堆肥では、肥料として効き目は少ない。人造肥料にこそ農業の未来があると熱心に説かれて、農村生まれの渋沢の心は強く揺さぶられた。

「時期尚早かもしれないが、人造肥料の会社を起こして、その事業の発展を図るのは国家のために有益ある事業であるだけではなくて、営利事業としても有望だろう」

夢の事業の始まりだったはずが…

国家のためにもなり、また営利も出る。これこそが、自分が生きる道だと渋沢は思ったのだろう。益田孝(三井物産の初代社長)や大倉喜八郎(大倉財閥の創設者)、浅野総一郎(浅野財閥の創設者)、安田善次郎(安田財閥の創設者)などに声をかけて、東京人造肥料株式会社を設立。高峰讓吉にいたっては、農商務省を辞めて、技術長に就いている。まさに夢の事業の始まりだ。関係者は誰もがそう思ったに違いない。

しかし、結果的に人造肥料はまったく売れなかった。農家にしてみれば、これまでずっと無料の肥料を使ってきたため、わざわざコストをかけるという発想にならなかったのだ。

それでも効能をアピールして、少しずつ注文がとれ始めたが、今度は「効かない」とクレームが殺到。渋沢は人造肥料を藍の産地である故郷にも送ったところ、原材料に間違いがあり、成果が上がらなかったのである。

反省を生かして肥料の質こそ上がったものの、今度は技術長の高峰讓吉が会社を辞めてアメリカ留学すると言い出したうえに、工場が大火事に遭って全焼してしまう。泣き面に蜂とはこのことである。人造肥料の事業において、積み上げてきたものはすべて失ってしまった。

万事休す。共同出資者からは「会社を潰そう」という声が次々に上がった。これ以上、赤字を重ねるわけにもいかない。もはや撤退しか道はない。そう思えたが、1人だけ逃げなかった男がいる。渋沢栄一である。

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