料亭に到着すると、15人ばかりの芸者が用意されている。一座は屋形船で川に出ると、漁師に網で獲られた魚が船内で跳ね回る。芸者たちが嬌声を上げるなか、弥太郎はおもむろにこう切り出した。
「これからの事業はどうやって経営していくのがよいだろうか」
このとき渋沢は38歳。岩崎は5歳年上で、海運業の成功により、すでに巨万の富を築いている。そんな成功者が若輩者に心からアドバイスを求めているとは思えない。
だが、どんな意図があるにせよ、渋沢の事業に対する考えは明確である。即座に合本主義について熱弁するも、岩崎はそれに真っ向から反対した。
「あなたが語る合本主義などは、船頭多くして船山に登る、の類だ。事業は経営手腕がある者が行わない限り、うまくはいかない」
リアリストという点で両者は共通していたが、岩崎からすれば、渋沢の高邁な理想は会社経営にはマイナスだと考えていた。
むろん、渋沢とて経営者には、それにふさわしい資質が必要なことに異論はない。さらにいえば、多様な人材と意見交換しながら、1つに結束させて事業を推進していくには困難が伴うことも、身に染みていた。
岩崎から呼び出されたのは、明治11(1878)年8月。渋沢は、すでに銀行以外の会社設立にも携わっており、幾多の壁にぶつかっていた。そのうちの1つが製紙業である。
資本金集めに大苦戦
大蔵省を辞めた渋沢が、手始めに日本初となる銀行を設立したことはすでに書いた。それと同時期に立ち上げたのが、洋紙を製造する抄紙会社(現在の王子製紙と日本製紙)である。
なぜ製紙事業なのか。その理由について、渋沢はこんなふうに語った。
「明治維新の大事業が成就した今、進むべき方向は文化、文明の発展であり、学問や芸術が振興するだろう。学問や芸術の発展のためには、廉価な洋紙を供給し、図書や新聞、雑誌などの出版を盛んにすることも重要である」
時代のニーズをとらえる、この大局観こそが渋沢の魅力であり、実業家としての武器である。渋沢は銀行と同じく製紙業に注目。大蔵省にまだいる頃から、民間の有力者に設立を促していたほどだった。
だが、いざ自分で立ち上げようとすると、高い理想はともかくとして、資本金集めがまったくうまくいかない。渋沢は完全に手詰まりになってしまう。出資をこれほど拒まれるのは、株式会社というものが、まだよく理解されていないのも原因の1つだが、政府が主導した為替会社や商社などが次々と失敗したことも大きく影響していた。
「政府も資本を投じ、株主も出資して皆損をしたから、会社は恐ろしいものと嫌われた」
そんな恨み言をのちに書いた渋沢。仕方がなく、自身が設立した第一国立銀行から借り入れをしたり、自分で株式を購入して第三者に売却したりして、なんとか資金を調達したのだった。
危ない橋を渡ったのは、「国のためになる」という点で、事業の方向性は間違えていないと確信があったからこそである。事業をスタートさせられれば何とかなる……はずだった。
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