「国家のためになる事業で、農村の振興にも必要だ。将来は必ず有望な事業になると信じて計画したのだ。どんな厄災に遭っても、必ずこの事業を成就させなければならぬ」
渋沢にとっては「国家のためになる」と言い切れる事業を、うまくいかないからとやめるという選択肢はなかった。
「借金してでも必ず成し遂げる」
渋沢は、1人で経営改革を行う。株主総会に働きかけて資本金を半減して、創業から続いていた赤字や火事による損金を補填した。さらに、肥料の原材料として多く使う硫酸を、他社から購入するのをやめ、自身の工場で製造することでコストダウンを図った。少しでも多く利益が出るかたちを作り上げたのである。
そうして赤字体質から少しずつ抜け出そうとしているうちに、時代の追い風を受ける。明治27(1894)年ごろから、人造肥料の需要が高まってきたのだ。その結果、創業6年目あたりから業績は好転し始める。その後も順調に売り上げを伸ばすと、資本金を増資して工場も拡張。事業を軌道に乗せることに成功した。
大失敗して1人きりになり、渋沢はこれまでの人生の苦境を振り返ったのではないだろうか。そして、腹をくくったのである。これまでどんな苦境だって、自らの奮闘で乗り越えてきたのだから、と。
「自分からこうしたい、ああしたいと奮励さえすれば、大概はその意のごとくになるものである」
時代の大転換期を駆け抜けた渋沢栄一
短期連載「渋沢栄一とは何者か」は本稿で最終回となる。渋沢の人生からほとばしる情熱に触発されたのか、思いのほか筆が進み、第8回まで続けることができた。
もちろん、本連載で紹介した、渋沢の業績は全体のほんの一部である。また、渋沢は60歳ごろから国際関係の仕事に多く携わった。国際人としての活動も含めると、まだとりあげるべき逸話は数多くある。
しかし、「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢が、どんな紆余曲折を経て実業家となったのか。幼少期や青年期に触れた言葉や思想が、のちの渋沢にどんな影響を与えたのか。そして、明治維新という時代の大転換期で、渋沢がどんな考えを持って、500社を超える会社設立に携わったか。その一端は本連載で伝えられたように思う。
日本経済ひいては日本社会全体に閉塞感が漂って久しい。こんな先行きがみえない混迷の時代だからこそ、渋沢栄一の突破力に私たちは勇気づけられるのだろう。そして、どれだけの困難に直面しても、決して諦めてはいけない。未来への一歩を踏み出す限りは、そこに必ず希望はある。渋沢はそう教えてくれている。
【参考文献】
渋沢栄一、守屋淳『現代語訳論語と算盤』(ちくま新書)
渋沢栄一『青淵論叢道徳経済合一説』(講談社学術文庫)
幸田露伴『渋沢栄一伝』(岩波文庫)
木村昌人『渋沢栄一――日本のインフラを創った民間経済の巨人』(ちくま新書)
橘木俊詔『渋沢栄一』(平凡社新書)
鹿島茂『渋沢栄一(上・下)』(文春文庫)
渋澤健『渋沢栄一100の訓言』(日経ビジネス人文庫)
岩井善弘、齊藤聡『先人たちに学ぶマネジメント』(ミネルヴァ書房)
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