東大生がいつも「一応、東大です」と謙遜する訳 日本人が知らない「東大の呪縛」が招く弊害
なにかの拍子に出身大学を尋ねられた東大生や東大卒業生が、その返答としてしばしば使うのが「一応、東大です」という定型句だ。
あまりにもよく使われるため、書籍のタイトルにもなっている。著者もこれまでに何度となく口にしてきた。みなさんも、まわりにいる東大出身者が口にするのを耳にしたことがあるかもしれない。この言葉を口にする東大卒業生の心中には、次の2つの感情がある。本記事では、その感情について解説しよう。
東大生も「ピンからキリ」までいる
一つ目は、「自分はあなたが思い描いているほど優秀な人間ではありませんので、どうか買いかぶらないでください」という心からの謙遜の気持ちだ。
東大生というものは実にピンキリ。今なお多くの大学受験生が志望校を決める際の判断材料としているのが偏差値だが、その偏差値ヒエラルキーの頂点に位置する東大の場合、一部の医学部や海外の大学をのぞいて「さらに上」というものがない。
つまり、下は合格ラインだが、上は青天井。相当な無理と幸運で辛うじて東大に滑り込んだ者から東大生の平均をはるかに超える天才じみた者までが、いっしょくたになって「東大生」と呼ばれている。
ピンキリの「ピン」にあたる東大生は、集中力と頭の回転が桁外れで、勉強でも仕事でも常人の半分の時間で完璧にこなしてしまう。彼らは、どんな講義でも一度聴けば理解してしまうし、あらゆる試験を難なくパスする。社会に出てからは、どのような場所にいても求められた以上の成果を出す。高い教養があり、たいていは人格的にも優れている。スポーツで例えるなら、野球の大谷翔平、フィギュアスケートの羽生結弦、女子レスリングの吉田沙保里に相当する人たちだ。
感覚的には東大生全体の1割かそれ以下という少数派なのだが、困ったことに世間が抱く「頭脳明晰で優秀な東大生」というイメージの元になっているのは、まさにこのタイプ。そんな、雲の上にいるスーパー東大生たちと同一視されてしまったら、「ただの凡庸な東大生(もしくは、東大卒業生)である自分」の評価はそこから減点される一方になる……ような気がして不安でならない。
だから、できるだけ謙虚にいようとするのだ。彼らの絶対的な才能を間近でみてきているから、自分がその評価に見合わないことなど身をもって理解している。
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