享年35歳の筋ジス患者が親指2本で遺した足跡 1998年逝去、4代にわたって今もサイトは現存

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兄弟で自分たち専用のパソコンを手にしたのは轟木さんが養護学校の高等部を卒業したすぐあとのことだった。決して裕福ではなかったが、母たちが手つかずで残してくれた母子年金のおかげで購入することができた。

兄のようにはうまくプログラミングできなかったが、市販されている周辺機器などをつないで道具として使いこなすのも楽しい。外部とコミュニケーションが取れるパソコン通信に熱中するのは性格的に必然といえた。

パソコン通信は1980年代半ばから1990年代にかけて流行したサービスで、一般の電話回線を介してチャットや掲示板でのやりとりを楽しむ。電動車椅子で動けた頃はパソコン通信するたびに廊下に出て公衆電話に専用機をセットし、10円玉を何枚も入れながら会話に没頭した。動けなくなった後も病室に電話線を引き込んで生活の一部とした。

同じ病気だった兄は23歳で他界

しかし、兄とはこの楽しさを共有できていない。パソコン通信が流行る少し前に体調を崩し、そのまま帰らぬ人となったためだ。

兄との最期のときを綴る。『光彩』より(筆者撮影)
兄の方に目を移すと吸引器で吸い取られた死闘の後の鮮血が、異様とも思えるほど赤く、目に飛び込んで来た。兄の表情は白さはあったものの穏やかで、黄泉の国へ旅立った人は(ママ)とても思えなかった。
(『光彩』兄が永久の国へ より)

兄は23歳で、自分は22歳。轟木さんが診断を下された頃、筋ジストロフィーD型は成人する前に亡くなる病気だと言われていた。この時期に気管切開を含めた呼吸管理の技術が進歩して大幅な生命延長が可能になってきたが、兄は亡くなった。

私の病型であるD型は、18歳前後で亡くなるという常識のようなものが自分の中にある。事実、ひとつ年上の兄、正明も昭和60年(1985.1)に23歳で亡くなり、D型の20歳の記念写真を撮った同級生も21歳以降、次々に亡くなっていった。死にゆく病棟の仲間を目にすることで、気管切開を受けず体外式と呼ばれる人工呼吸器を装着していた頃の私は常に死の恐怖を意識していた。
(「死を考えること」より)

兄の死から2年近くが過ぎた頃、轟木さんの身体にも明らかな異変が生じ始めた。疲れやすく、座っているだけで冷や汗がにじんでくる。心臓の機能低下と呼吸不全によるものだった。

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