享年35歳の筋ジス患者が親指2本で遺した足跡 1998年逝去、4代にわたって今もサイトは現存

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轟木さんが生まれたのは1962年の年の瀬のこと。トンネル工事専門の出稼ぎを生業とする父と、同じく土木工事業で働く母の間に3人目の子として育った。物心ついてしばらくすると、親に腕を引っ張ってもらわないと坂道が上がれなくなるなど、身体の異常を感じ始める。

1つ上の兄・正明は5歳のときに、轟木さんは小学校に入学してすぐの6歳のときに筋ジストロフィーと診断された。同級生と比べて重いものが持てなかったり、運動会の障害物競走でハシゴをくぐったときに自分だけ顔面を強打し気を失ったりした記憶が残っている。けれど、自身で言うとおり怖いもの知らずの性格。小学4年の夏に県立の整肢学園に転入するまで、身体の不調を気にかけることなく山や野を駆け回る生活を続けた。

筋ジストロフィーは根治の方法が見つかっていない国の指定難病。身体はじわじわと確実に機能を失っていき、学年を増すごとにできないことが増えていく。

小学6年生で終の住処となる病院に入院

兄とともに終の棲家となる国立療養所南九州病院に入院したのは小学6年の2学期だった。卒業後は養護学校の中学部に病院から通学したが、長距離の歩行が困難になっていき、中学2年の終わりに車椅子に切り替えざるをえなくなった。この頃、一家の大黒柱である父も急死している。

悲しい出来事が続くが、中学時代はアマチュア無線によって世界が大きく広がった時期でもあった。ある日、病棟の無線室で仲間の1人がコールサインを使ってどこかに住む誰かと交信しているのを目撃し衝撃を受け、たちまち虜になった。

初めて自分のコールサインで交信をしたのは、札幌の人だった。無線機を通し自分のコールサインと名前を呼ばれた時の感動と、マイクに向い初めて見知らぬ土地の人と話すことの極度の緊張は今でも忘れることはできない。
(『光彩』アマチュア無線の魅力 より)

身体は徐々に動かなくなり、自分の足で遠くに出かけることはかなわない。けれど無線を使えば、物理的な制約を軽々と超えて見知らぬ誰かとコミュニケーションが取れる。さらに腕が上がった頃には南極観測基地と交信することもできた。

この感動は、同時期に興味を持つようになったパソコン、ひいてはパソコン通信の世界にも通じるところがあった。

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