不安な現代人こそ「礼」が必要になる意外な理由 われわれは日常を失いつつある
中島:アーレントも、複数の人々が言語を通じて意見を交換して受け取ることが大事だと言うわけですよね。私はそのアーレントが最後にたどり着いた「The life of the mind」という言葉に注目しています。
その書名は日本語では「精神の生活」と訳されていますが、アガンベンの言う「剝き出しの生」を許すような社会ではしょうがない。そのアガンベンもまた、「form of life(生の形式)」という問題をずっと考えてきた哲学者です。
アガンベンは、別にコロナの感染が起きたから、反動おじさんになったわけじゃないですよね。「生の形式」という言葉で彼がイメージしているのは、昔の修道院規則のようなものです。それをもう一度、真面目に考えようとしているわけです。アーレントが意見の交換というとき、それは古代ギリシアを念頭に置いている。そうすると、こちらでも当然、奴隷制の問題をどう考えるのかという批判が出てくるわけです。
それでも、ファシズムをはじめとする全体主義の官僚主義的な悪に抵抗するには、ある仕方で言葉を獲得し直す、定義し直すしかないと思います。
反動的であることの意味を考える
國分:そうなんです。今はよく「リベラル」「保守」と言うけど、昔は「保守反動」って言葉をよく使ってましたね。保守反動というのは、社会が変わろうとしているときに「変わらないでいいよ」と言う人ですね。
現代のように、さらさらと言葉が砂のように流れていってしまうときには、むしろ反動的であることの意味について考えるべきではないかと思っています。言葉にはなにか押しとどめる力というものがあって、そこにはどこか反動的な側面があると思います。そもそも、今回の対談で何度も名前があがっているアーレントはすごい保守派の思想家なのであって……。
中島:アメリカでは保守派の象徴としても読まれました。誤解されているかもしれませんが、フランスでのアーレントの読解とアメリカでの読解はずいぶん違っていたことを思い出します。
國分:アーレントやアガンベンが、左派の人から持ち上げられていることに僕は前から違和感を持っていました。アーレントにもアガンベンにも単なる保守というよりも保守反動とでも言うべきところがあると思います。
中島:アーレントの「精神の生活」、あるいはアガンベンの「生の形式」のどちらにも、「life」という言葉が入っています。私はこのコロナの時代になって、ますます「life」ということが重要な問題として突きつけられているような気がしています。ここで中国哲学を参照すると、「礼」という問題と関係してくるように思います。
國分:『全体主義の克服』でも、礼について議論していますね。
中島:礼の話なんて、ある意味では保守反動の究極なわけです。「この時代に礼なんて言うのか」「こんな封建的で後進的な概念を今さら持ち出すのか」となるはずなんですね。でも、本当にそれなしでやっていけるのか、ということなんです。
礼は死者に関わる問題でもあります。このコロナ禍の状況のなかで、どのようにすれば私たちは死者と向き合うことができるのか。これは、カントのような普遍的な規範性で答えられる問題ではありません。
礼は、人間の身体や感情に根差す規範です。でも、そこを考えない限り規範の問題はなかなか解けない。こういう議論をガブリエルさんが興味を持って拾ってくれたのは面白かったですね。