不安な現代人こそ「礼」が必要になる意外な理由 われわれは日常を失いつつある
中島:だからガブリエルさんと会って本当にびっくりしたのです。『全体主義の克服』の対談で、さらにびっくりしたのは、王弼という魏の時代の思想家を読んでいたと言ったことです。
王弼は、『老子』『荘子』『易』の三つのテキストを解釈し、「無の形而上学」を作り上げようとした若き天才です(20代で早世)。それを、ガブリエルさんはシェリング解釈に適用したと言うのです。「あなたはどういう頭の使い方をしているんですか、すごい!」となるわけです。
でも、彼にこう聞かれたんです。「これだけグローバル化した時代にあって、哲学はこれ以外に何かほかにやり方があるんですか」と。真に新しい世代が登場したなと思いました。
ただ考えてみると、スピノザやライプニッツだって同じようなことをやっていたわけですよね。
國分:そうですね。カントだって、ケーニヒスベルクという港町で、世界中のことを知っていました。
中島:ニーチェはカントのことを「ケーニヒスベルクの中国人」と言いましたからね(笑)。
國分:概念が旅をするというのは、哲学の本当にすばらしいイメージだと思います。ところがそれを妨げるような思想というのがあります。例えば「多文化主義」は聞こえはいいけれども、乱暴に言えば「あなたたちのことは認めるから、私たちに触らないで」という思想です。つまり、これは概念の旅の禁止になるわけですよね。
多文化主義は1990年代以降、非常に強い力を持ち、それが正義だと持ち上げられていたが、むしろ弊害のほうが大きいということがわかってきた。そもそも多文化主義は差別的な対応とすれすれのところにあります。
僕は学生当時から多文化主義というのは正義でも何でもないと思っていました。卒論でもこれを批判的に取り上げたのを覚えています。その後、かなり時間が経ってから気づいたのは、ジャック・デリダの「歓待」という概念がそれに対抗するものだということです。
「寛容」と「歓待」の違い
國分:多文化主義の発想の根幹には寛容の思想があります。寛容というのはフランス語でトレランス、つまり我慢することです。相手の存在に我慢する。それはつまり、「あなたに触れませんから、僕にも触れないでください」ということであり、まさしく多文化主義です。
それに対して、一緒にどうぞと、自分が主人だか客だかわからなくなってしまうのが歓待であり、概念が旅しているときには歓待のようなことが起こっていると思うんです。
フランス語で歓待はオスピタリテ、歓待する者はオット/オテスと言うんですが、驚くべきことに、辞書を引くと、オット/オテスには「あるじ」という意味と「客」という意味の両方がある。つまり歓待をしているときというのは、もはや自分がもてなしているのか、もてなされているのかわからなくなってしまう。どちらが主でどちらが客かわからなくなる。
概念の旅においても同じではないでしょうか。概念の旅において歓待のようなことが起こることこそ、最もスリリングな哲学的体験だと思います。
だからこそ、概念が自由に旅できるような教育をしていきたいですよね。今の日本の大学教育だとなかなかガブリエルさんのような人をつくった教育はできません。「君、シェリングをやっているんだろう。中国哲学のゼミに出ている場合じゃないよ」と言われてしまうんじゃないでしょうか。
中島:言われますね。
國分:そこを変えていきたい。大学を、ピアニストが哲学の学位を取るなんてことも起こるような場所にしていきたい。