不安な現代人こそ「礼」が必要になる意外な理由 われわれは日常を失いつつある
中島:概念が旅をする途上で、いろいろな人が変容を経験するわけですよね。『全体主義の克服』の最後に、私は「人間的になること(human becoming)」や「ともに人間的になること(human co-becoming)」という概念を出しましたが、相互変容が起きないような哲学ではもうダメなのでしょう。
昔、ハンナ・アーレントの研究会をやっていたときに、アメリカから来たある学者が、アーレントで大事なのは“Don’t feel at home”なんだと言ったのです。それ以来、時々、この言葉を思い出しています。
このコロナ禍で“STAY HOME”と散々言われたときも思い出しました。くつろいで快適に感じてはいけない。私たちはやはりデジタル空間の中で、なんらかの快を感じているのでしょう。一種の“feel at home”です。
でも、それをやればやるほど喉が渇く。もっと飲みたい、もっと飲みたいとなってしまう。そのような状況から、どうすれば、國分さんが考えたような、違うタイプの楽しさに入っていくことができるんでしょうか。
例えば、アーレントのいう「意見」は、まさに別の楽しみですね。その意見を交換することが、アーレントの意味での公的な空間、活動の空間です。はたしてこういう空間をどういうふうにつくっていくのかが、現代の社会でもあらためて問われているのだと思います。
ネット上で行われているのは憂さ晴らし
國分:僕は今の問題を、言葉というものをどう復権するのかという方向で考えています。意見を作れないというのは、言葉を受け取っていないからなんですよね。
ネットで行われている反応の交換は、バーゲンセールで何かを買って憂さ晴らしするようにして、誰かの論説にわっと反応して憂さ晴らしすることだと思うんです。逆に意見の形成に役立つような言葉があっても、スルーされてしまう。
例えば、アガンベンはコロナ禍での政府の対応と人々のその受け止め方を批判し、人々がただ生存のために、死者を弔うこともせず、移動の自由をも容易に放棄していったら社会はどうなってしまうのかという論説を発表して、「炎上」騒ぎになりました。
「反動おじさん」みたいな言い方だったからか、世界の哲学研究者から総スカンを食らったと言ってもいい。
けれども、僕がNHKの番組でアガンベンの論評をまろやかに紹介したら、それは受け入れられるんですね。叩かれることを覚悟で、かなり緊張してアガンベンの意見を紹介しましたが、批判的な反応はほとんどなかった。むしろ多くの方からいろいろ考えさせられたという感想が寄せられた。
つまり口調というものが非常に大きな役割を果たしている。ということは、ネット上にだって、実は、きちんと受け入れて咀嚼するべき言葉があるということなんです。
アガンベンの言葉は、最終的にその意見には同意できなかったとしても、一度きちんと受け入れて咀嚼すべき言葉だったということだと思います。