――強気だなあ……。医師を目指したきっかけを教えてください。
私が中高生時代はバイオテクノロジーが急速に発達し始めた頃で、医師になることを意識し始めたのです。父と同じ産婦人科医は、大変でつらいことがわかっていたんですけど……。若い頃には買ってでも苦労しろという、祖父や両親の言葉を聞いて決意しました。
月の3分の2が当直でも諦めない
――医局は慶応病院に所属したそうですね。人手不足が指摘される大病院の産婦人科医は、やっぱり大変でしたか?
人生でいちばん体力的に大変で、学びも多い日々でした。慶応病院は規模が大きくて患者数も多いので、産科と婦人科に分かれていて、両方の過密なスケジュールをこなさなければなりません。病院に入った頃のことは今でも覚えています。
月間で3分の2が宿直のときもありました。でも、どんなにつらくても、自分の限界なのかワガママなのかが判断できないうちは、仕事を続けようと思っていました。体調を崩して、そのまま慶応病院に入院したこともあります。ある日、久しぶりに病院の外に出たら空が青くて雲が白かった。それだけで熱い涙が流れ出てきました。
こうした修業時代を経て、ある目標ができました。「博士号を取ったら今までできなかったことを何でもしよう!」という目標です。
――2008年に慶応大学で博士号を取得する前後に、ビジネススクール(グロービス)に通ったり、サプリメント開発の会社を作ったり、宇宙飛行士の試験を受けたりしていますね。10年間の修業時代が明けた喜びが伝わってくるような経歴です。
当時の私のように病院内に閉じこもっていると、「井の中の蛙」になりがちです。専門性はあるけれどほかの知識がなさすぎる。私は安易なので、わからないことがあったら学校に行っちゃいます。経営やビジネスについて知るために、グロービスに通うことにしました。
サプリメントの開発を手掛けるようになってからは、医療の規制などで法律に関心が出てきました。2年前に早稲田大学の法学部に学士入学し、医事刑法の先生の下で学ぶことができたのです。
早稲田を選んだのは、3年前に亡くなった大好きな父が、早稲田びいきだったから。バンカラなイメージがある早稲田にあこがれを持っていたようです。最後の日々を過ごした病室も、大隈講堂が見える部屋だったのですよ。
小さい頃に勉強を教えてくれるとき、いつもプラスアルファで難しい問題を出してくれ、努力して一歩上を見ることの楽しさを教えてくれた父でした。私がつねに努力し続けられる原点です。
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