セパージュ時代の到来(5)挫折:南仏アニアーヌ村の事件《ワイン片手に経営論》第19回
■モンダヴィの南仏アニアーヌ村進出 その2:不吉な滑り出し
ロバート・モンダヴィは進出当初、苦戦を強いられます。既存の自社ブランドのカリフォルニア・ワインの中で、フランス語の響きのある「ヴィション」というブランドを転用し、「ヴィション・メディトラネ」として売り出しましたが、大失敗しました。既存の味に慣れた顧客は味の変化に驚き、ヴィションを買わなくなってしまったからです。年間40万本の生産量に対して、注文は28万本にとどまり、在庫が大量にのこり、大幅な値下げを強いられたのです。もともと低価格帯の中でプレミアム・セグメントを狙ったブランドでしたが、値下げプレッシャーの中で、プレミアムのポジションを保てなくなり、ヴィション・メディトラネのブランドの地位が失墜していったのです。完全なブランド戦略のミスです。
しかし、モンダヴィは諦めません。再びラングドック地方を訪れ、1999年、ラングドック地方にあるモンペリエ近郊にワイナリーを開設すること、またブドウ畑を買収することを正式に発表しました。そして、ロバート・モンダヴィは土地探しを始めます。最終的に絞られた候補地がアニアーヌ村です。
そうです。エメ・ギベールのワイナリーがある村です。
2000年4月。ロバート・モンダヴィは事業計画書をアニアーヌ村議会に提出します。アニアーヌ村のアンドレ・ルイーズ村長はその計画書を好意的に受け取ります。「アニアーヌ村をラングドック地方のサンテミリオンにしたい」。サンテミリオンは、ボルドー地方にある、高級ワイン生産者が集まる地域です。村長は、モンダヴィのブランドイメージを活用して、ラングドックの大衆ワインのイメージを変えたかったと考えられます。
計画書の主要な内容は次の通りです。
投資額
−アブルッサス山地に50ヘクタールのブドウ畑の開発投資:2200万フラン
−年間30万本の収容力と最新の設備を備えた醸造室の建設投資:3300万フラン
進出の条件
−土地の使用料は、ワインの年間生産量を基準とし、売上の1%、または5000ユーロを下回らない額とすること
ロバート・モンダヴィは慎重でした。進出計画に対して地元の反対運動が起きる可能性を想定したのです。開発される土地における狩猟権や自然保護への配慮、地元の歴史や文化の尊重など、村から出された条件をすべてモンダヴィはのんだのです。しかし、具体的に地元住民と話し合いをする段になって、村側が、進め方をしくじりました。−アブルッサス山地に50ヘクタールのブドウ畑の開発投資:2200万フラン
−年間30万本の収容力と最新の設備を備えた醸造室の建設投資:3300万フラン
進出の条件
−土地の使用料は、ワインの年間生産量を基準とし、売上の1%、または5000ユーロを下回らない額とすること
アブルッサス山地の一部を開発することにより、地元ブドウ栽培者が畑を増やせるだけでなく、地域外の栽培者も畑を開発できるようにする必要性を村側は地元住民に説明しましたが、ロバート・モンダヴィと6カ月以上も前から話し合ってきたことを伏せたのです。この事実を新聞にすっぱ抜かれ、住民は不信感を募らせます。あたかも地元住民のために開発の必要性を説いていたと思ったら、実はモンダヴィを誘致するための話だったのかと。
一度、掛け違ったボタンを途中から直すのは極めて難しいものです。詳細は述べませんが、さまざまな経過を経て、最終的にロバート・モンダヴィに50ヘクタール、地元のブドウ栽培家兼ワイン醸造家に、25ヘクタールを貸与することを村議会は決定し、地元も利益を享受できる趣旨の方針を明確にしました。結果、当初モンダヴィの進出計画に反対していた人の中には、賛成に転じる人たちも出てきました。
しかし、最後まで反対しつづけたのが、エメ・ギベール。彼は、環境問題や、地元産業の保護など、さまざまな理由をつけて抵抗します。おそらく、最後まで抵抗し続けたのは、ロバート・モンダヴィが、地元に富をもたらすのではなく、激しい競争相手となることに、直感的に気づいていたからでしょう。
ギベール以外にモンダヴィの進出に反対していたのは「アブルッサス山地保護協会」や「アニアーヌ村に生きる」といった団体です。特に、「アニアーヌ村に生きる」の代表マニュエル・ディアズは、1983年から89年にかけて副村長を務めた人物です。しかし、1989年に村長選でアンドレ・ルイーズと選挙で一騎打ち、このときはアンドレ・ルイーズが当選し、1995年の二期目もルイーズが再選を果たします。この間、ディアズは村議会にすら、議席を獲得することはできないでいました。
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