人間を不幸にする「資本への奉仕度」の格付け 革命の原点は「僕は嫌だ」と言える身体にある

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いま「心を開く」という比較的穏当な動詞を使ったけれど、本当はそんな生易しいものではない。読者が「心を開く」というのは、どこかで「自分を手離す」ということだからである。自分が自分のままである限り、この頁に書いてあることは理解できない。この頁が理解できるようになるためには、自分はいまの自分とは別人にならなければならない

そういう「清水の舞台から飛び降りる」ような決断を下すこと、それが「心を開く」ということである。そして、そのような厳しい決断を読者に迫る書物がこの世には存在する。白井さんのこの本はそういう書物である。

読者を「革命」に導くための本

白井さんは読者たちに「清水の舞台から飛び降りる」ことを求める。厳しい要求である。そのことを白井さんもわかっている。「はい、これがパラシュートね、あの目標点めざして飛び降りてね。じゃ、いくよ」くらいのあっさりした声かけでは、たぶん足がすくんで、ついてきてくれない。

だから、飛び降りてもらう前に、入念なストレッチを行い、これから行ってもらう「跳躍」が、どういう歴史的な文脈のうちで形成され、なぜ知的成熟にとっての必須科目とされるに至ったのかを、諄々(じゅんじゅん)と説く。読者に「怖いこと」をさせるつもりでいる本はフレンドリーな顔をして近づいてくる。そういうものなのである。

この本はとても丁寧に書かれている。でも、それは繰り返し言うが、「啓蒙的」な意図に基づく丁寧さとは違う。白井さんが、大変に丁寧に説明するのは、読者にこれから「大変なこと」をしてもらうためだからである。

白井さんは「思索の人」であると同時に「行動の人」である。彼は(社会人としての立場上あまり広言はされないが)機会があれば「革命をやりたい」と思っている。

だから、すべての書物を通じて、実は白井さんは「ともに革命をする同志」を徴募しているのである。「読者にこれから大変なことをしてもらう」という「大変なこと」というのはそれである。

レーニンは『国家と革命』の「あとがき」で「革命の経験をやりとげることは、それについて書くことよりもいっそう愉快であり、またいっそう有益でもある」と書いている。

きっと白井さんもそう思っている。

だから、彼の本は「読者をして行動に導くための本」である。読んでもらって「よくわかりました。いや、『資本論』のことがよくわかりました。ありがとう」では済まされないのである。「よくわかりました。資本制社会の仕組みが理解できました。で、次は革命のために何を始めたらいいんですか?」という読者が欲しいのである。

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