人間を不幸にする「資本への奉仕度」の格付け 革命の原点は「僕は嫌だ」と言える身体にある
人間たちが現に自分を収奪している制度に拝跪する心性の倒錯に気づき、自分の身体の奥底から絞り出すような声で、その制度に「ノー」を突きつける日が来るまで、資本主義の瑕疵(かし)や不条理をいくら論(あげつら)っても革命は起きない。問題は革命的主体の形成なのである。
「反抗」の起点になるのは人間の生身だ
だから、白井さんは、本書の結論部にこう書いている。
最終的に「反抗」の起点になるのは人間の生身である。かつてアンドレ・ブルトンはこう書いた。
「『世界を変える』とマルクスは言った。『生活を変える』とランボーは言った。この2つのスローガンはわれわれにとっては1つのものだ」
そのとおりだと思う。「生活を変える」ことなしに、「世界を変える」ことはできない。1人の人間が血肉を具(そな)えた1人の人間が、その生物として深い層から「それは、嫌だ」という反抗の叫び声を上げるときに、労働者は資本主義的な「包摂」から身を解くのである。
そして、「包摂」から逃れた労働者の眼前には「資本の本源的蓄積」以来の資本主義の全歴史が一望俯瞰される。だから、その次に労働者が選択するふるまいは、どのようなものであれ、その語の正しい意味において「革命的」なものとなるはずなのである。
令和の聖代に「懦夫をして起たしむ」かかる「革命的」な書物が登場したことを喜びたい。
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