「武士」という存在に罪を感じた男の生き様 「流人道中記」を書いた浅田次郎氏に聞く

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ただ、あの場面は読み返すごとに二重三重の解釈が可能なんです。実はそんな仕掛けをこの小説ではあちこちに仕込んである。

──ほかにも押し込み強盗と飯盛り女、賞金稼ぎの浪人、村伝いに送り届けの世話になる巡礼寡婦など、皆、事情を抱え必死で生きている。唯一の悪人は、終盤で浮上する、玄蕃を流人の身におとしめた同じ高位の武士くらいでしょうか。

でもね、世の中、善と悪とをそう簡単に決めつけられるもんじゃない。事の発端である玄蕃をわなにはめた武士も、家制度という封建主義の犠牲者だと玄蕃は思い、あえておのが身で罪を被った。だからこそ自分は偽りの権威で塗り固められた家制度を潰す。それこそ玄蕃にしかできない戦だった。

切腹は自らの正義に反することだった

──ぬれぎぬを着せられ、いったんは切腹を言い渡された際、「己の信ずる正義を恥として腹を切るなど、それこそ怯懦(きょうだ)」「良心が痛む。俺は武士だから」と言い放ちます。玄蕃の言う武士の良心とは?

玄蕃には出自の真相があって、武士の存在自体が理不尽であり、己が武士であることを罪だと思っていた。武士道というわけのわからぬ道徳を掲げ、家門を重んじ、体面を貴び、万民の生殺与奪をほしいままにする武士そのものを懐疑していた。その間違った世の中の常識によって自分が罰せられる、あるいは自裁するのは納得できない。それこそ義に反する、彼自身の正義に反することだった。

──幕末には彼のような考えを持つ武士も実際いたのでしょうか?

いや、いなかった。武士階級が消滅するなんて考えはまだなかったから。だから僕は150年後の現代人の感覚で書きました。

玄蕃の決断は少なくとも仏教的モラルじゃない。自分を陥れた武士を彼は許すわけで、これはキリスト教的なモラル。その寛容さは仏教や儒教ではちょっとありえない。仏教的モラルは仏様の立場から衆生を哀れみ、慈しむのが基本。これは上の側から下の側に施すって意味だから、階級社会でしか存在しない。

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