野村克也、成功と失敗に彩られた84年間の軌跡 最も輝いたのは南海ホークスの時代だった

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ヤクルトでは古田敦也、池山隆寛、高津臣吾ら人材に恵まれたこともあり、9年間で優勝4回、日本一3回に輝く。

「ID野球」と言われ監督としてはヤクルト時代が最も成功した。

その後阪神、楽天で合計7年間監督を務めたが、優勝はできず。しかし両チームともに後任監督となった故・星野仙一の時代にリーグ優勝。野村が蒔いた種を星野が収穫したと見ることもできるかもしれない。

阪神監督時代には、野村沙知代夫人の脱税が発覚し、またもや監督を辞任している。

野村克也は、1970年代から多くの著書を刊行してきたが、21世紀に入ると単なる野球本ではなく、経営論や人生論を語るようになる。

その言葉はスポーツ選手だけではなく、ビジネスマン、とりわけ経営者に響くようになる。年齢とともに野村克也は「人生の師」的な位置づけになっていくのだ。

野村の人生をたどると、大成功とともに、さまざまな挫折や失敗を繰り返していることがわかる。野球以外の問題がたびたび足を引っ張ったともいえる。そうした起伏の多い人生が、不愛想で職人気質だった野村克也に人間味を与え、含蓄のある言葉を生み出す源泉になったのではないかと思う。

野村克也が最も輝いたのは南海ホークス時代

1988年限りで南海ホークスが福岡に移転し、大阪球場の跡地には「なんばパークス」という商業施設ができた。その屋上には「南海ホークスメモリアルギャラリー」が設けられている。

南海ホークスメモリアルギャラリー(筆者撮影)

筆者はときどき訪れる。人影は少ないが、年配の人が懐かしそうに見入っているのを見かけることもある。

エレベーターホールを利用した小さな施設だが、鶴岡一人、杉浦忠、門田博光などの歴代の監督、名選手のユニフォームやトロフィー、ペナントなどが飾られている。しかし、野村克也に関するものは一切ない。

本人が、それを拒絶したからだ。野村は「私は西武ライオンズのOBだ」と言い張っていた。

野村は「南海を追われた」ことを深く根に持っていた。また南海のドン、鶴岡一人との確執もあった。しかし晩年には恩師鶴岡を懐かしみ、評価する言葉も口にしていた。

ほとぼりが冷めてからでいいが、このミュージアムに、野村克也の活躍の歴史を展示しても、本人は異を唱えないのではないかと思う。

野村克也がいちばん輝いたのは、なんといっても南海ホークスの時代なのだ。若き日に、人もまばらな大阪球場で声援を送った筆者はそう確信している。

(文中一部敬称略)

広尾 晃 ライター

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ひろお こう / Kou Hiroo

1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライターやプランナー、ライターとして活動。日米の野球記録を取り上げるブログ「野球の記録で話したい」を執筆している。著書に『野球崩壊 深刻化する「野球離れ」を食い止めろ!』『巨人軍の巨人 馬場正平』(ともにイースト・プレス)、『もし、あの野球選手がこうなっていたら~データで読み解くプロ野球「たられば」ワールド~』(オークラ出版)など。

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